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千利休とは?天下一の茶聖利休の生涯や逸話を紹介

千利休は戦国時代に名を馳せた茶人です。織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人に仕え、現代の茶道につながるわび茶を発展、完成させたことでも知られています。

この記事では和泉国堺の商人の長男として生まれ、信長や秀吉の側近として重用された利休の生涯と、最後には切腹を命じられた理由についても紹介します。

千利休の生涯

わび茶を完成させ、今も茶道の中心をなす三千家のルーツとしても知られる千利休。若くして茶の湯の世界に入った利休は、織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人に出会い、やがて側近として重用されることとなります。

ここでは強い信頼でつながっていたはずの秀吉から切腹を命じられて命を絶つまでの利休の生涯について解説していきます。

1522年:和泉国(現在の大阪)で生まれる

のちに茶聖と呼ばれる千利休は大永2年(西暦1522年)、現在の大阪府堺市の商人田中与兵衛(たなかよひょうえ)の長男与四郎(よしろう)として誕生しました。

裕福な商家の跡取りにふさわしい教養を身に付けるため、17歳ごろから茶の湯を習いはじめ、北向道陳(きたむきどうちん)や武野紹鴎(たけのじょうおう)といった当時の第一人者に師事します。

紹鴎はわび茶の祖として知られる村田珠光(むらたじゅこう)を心の師と仰ぎ、若き日の利休に多大な影響を与えます。

そして、利休は23歳で初めての茶会を開き、成功をおさめました。茶人としての名を広めながらも家業をおこたることはなく、堺を実効支配していた三好家一族の女性と結婚。三好家の御用商人として財をなしました。

1569年:織田信長に茶頭として仕える

永禄11年(1568年)、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛した織田信長は、都にほど近く商業の中心地として繁栄していた堺を攻め、自身の直轄地としました。

信長は今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうぎゅう)、千利休を茶頭(さどう、さじゅう。茶の湯の指南役)に抜擢。政財界の中心人物であり、優れた茶人でもあった3人を重用し、堺との関係をより強いものにしていったのです。

ちなみに、この宗久、宗及、利休の3人を天下三宗匠と呼びます。

天正元年(1573年)と天正3年(1575年)、利休は信長が主催した京の茶会を成功させるなど、信長からの信頼を得ていました。信長が臣下にも茶の湯を奨励したこともあって、織田政権内での利休の地位は高かったと言えます。

1582年:豊臣秀吉の側近へ

天正10年(1582年)に信長が本能寺で倒れたのち、今度は豊臣秀吉に茶頭として迎えられます。

利休は秀吉の権勢を象徴する黄金の茶室の制作にたずさわったと言われています。この茶室は秀吉が関白就任の返礼として正親町天皇(おおぎまちてんのう)に献茶した際に使われており、天正15年(1587年)に開かれたこの茶会を演出したのも利休でした。

このとき、町人の身分でしかない利休が宮中に参内できるようにと、天皇から利休居士の号をたまわりました。私たちが知る千利休の名は、彼が64歳の折りにいただいたものだったのです。

秀吉は重要な茶会を幾度もまかせるなど利休を重用し、利休もまた側近としての自らの地位をたしかなものにしていったのでした。

1591年:秀吉に信頼されていた利休の最期

豊臣政権内での利休の地位がよくわかるのが、秀吉の実弟であり側近中の側近でもあった豊臣秀長の「内々の儀は宗易に、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」という言葉でしょう。

内々の儀とは内緒の話のこと。宗易は利休の法名です。ようは、公の場ではできないような話は利休に相談するといいよというような意味合いです。

また、豊後の太守大友宗麟(おおともそうりん)は、「宗易ならでは、関白さまへ一言も申し上ぐる人なし」つまり、秀吉に意見できるのは利休だけのようだと書き記しています。

豊臣政権内に深く根を張っていたはずの利休でしたが、庇護者でもあった秀長が病死すると立場は一変します。突然、堺での蟄居を命じられたかと思えば、ひと月も経たないうちに切腹を命じられます。その正確な理由は明確になっていません。

千利休が残した茶室

日本にある茶室で国宝に指定されているのはわずかに3つ。そのひとつが京都山崎にある妙喜庵(みょうきあん)という寺院にある待庵(たいあん)です。

現存するもののうちでもっとも古い茶室であり、利休がつくったとされる茶室で今も残っているのはこの待庵のほかにありません。

ここでは、利休が創意をこらしたであろう待庵について解説します。

秀吉の命で作った茶室

妙喜庵があるのは京都と大阪の府境、JR山崎駅のすぐそば。その庭にある茶室が待庵です。

本能寺で信長を討った明智光秀と激突した山崎の戦いのあと、秀吉はしばらくこの地に滞在していました。その折りに利休を呼び寄せて茶室をつくらせています。

妙喜庵には、利休に建てられた茶室を解体して移築したと伝わっているとのこと。利休の切腹のあと、おそらくは秀吉から取り壊すよう命じられたものがこっそりと保存され、江戸時代になってから利休と縁のあった妙喜庵に移されたということでしょう。

次の間と勝手の間を合わせても四畳半ほどしかない待庵には、わび茶をきわめた利休の茶の湯に対する想いが凝縮されています。

千利休が作った茶室の特徴

躙口(にじりぐち)と呼ばれる客用の出入り口はおよそ2尺四方。60〜70cm四方の狭さは内部の空間を広く見せるはたらきがあります。また、かならず頭を下げて通らなければなりませんし、刀を帯びたまま入ることもできません。

つまり、茶の湯の前ではすべての人が平等であり、武力や権力も無意味であるという主張でしょう。もちろん、それは次代の天下人たる秀吉さえ例外ではありませんよ、と利休は伝えたかったのかもしれません。

わずか2畳。素朴で飾り気がないように見えて、精緻に計算されつくした空間は、必要な要素だけを残して、それ以外をすべてそぎ落としたわびの極致とも言えます。

利休にとって、茶の湯は「ただ湯をわかし茶を点ててのむ」ことであり、そこになにも持ち込まない、持ち込ませないための究極の舞台装置が待庵なのです。

天下人に仕えた千利休

戦国時代の覇者となった織田信長、豊臣秀吉という二人の天下人に茶頭として仕えた千利休。その利休が理想として追い求めたわび茶がどのようなものなのかを紹介します。

また、利休の弟子となった武将たちのうち、のちに利休七哲と呼ばれた7人について、そして利休の子孫が作った三千家のおこりについても解説していきます。

わび茶の作法を完成させる

利休が追い求めたわび茶を開いたとされるのが村田珠光です。珠光は高価な茶器ばかりをありがたがる風潮を嫌い、不完全だからこそ生まれる美しさを尊びました。

珠光と入れ替わるように生を受けた武野紹鴎は、珠光の「草庵の茶」に禅の思想を取り込み、わび茶をさらに発展させます。そして、わび茶をより深め、茶を点てる作法や茶会の様式にまでこだわったのが利休です。

利休が大切にしたのは、もてなしの心だと言います。訪れた客に一服の茶を楽しんでもらうために、ただひたすらに、ただひたむきに「湯をわかし茶を点ててのむ」ことを突き詰めたのでした。

利休がきわめた茶の湯の理想は、私たちが知る茶道として脈々と受け継がれています。

千利休に弟子入りした7人

天下人たる信長や秀吉が茶の湯を政治に利用したのですから、その臣下が茶の湯を無視することなどできるはずがありません。信長、秀吉の茶頭をつとめた利休のもとには教えを請う大名、武将たちが多数いたのでしょう。

利休の弟子となったうち、特に高名だった7人が利休七哲(りきゅうしちてつ)と呼ばれています。

その面々は資料によっても異なりますが、利休の曾孫で表千家4代家元である江岑宗左(こうしんそうさ)があらわした「江岑夏書(こうしんげがぎ)」に「利休弟子七人衆」としてあげられているのは以下の7人です。

・蒲生氏郷(がもううじさと)
・高山右近(たかやまうこん)
・細川忠興(ほそかわただおき)
・芝山宗綱(しばやまむねつな)
・瀬田正忠(せたまさただ)
・牧村兵部(まきむらひょうぶ)
・古田織部(ふるたおりべ)

また、特に優れていたと言われる蒲生氏郷、細川忠興、芝山宗綱の3人を「利休門三人衆」と呼んだりもします。

利休の子孫が作った流派「三千家」

利休の息子少庵(しょうあん)は、利休の死後利休七哲のひとりである蒲生氏郷のもとに身を寄せます。その後、文禄3年(1594年)に京にもどり、出家していた息子の宗旦(そうたん)を呼び戻して京千家を継がせました。

宗旦の息子、つまり利休の曾孫のうち、家督を継いだ三男宗左(そうさ)が表千家を、四男宗室(そうしつ)が裏千家を、そして次男宗守(そうしゅ)が武者小路千家をおこし、利休のわび茶を継承しました。

ちなみに、それぞれの名前は表千家の茶室不審菴(ふしんあん)が表通りに面しているのに対し、裏千家の今日庵(こんにちあん)はその裏手にあること。また、武者小路千家の官休庵(かんきゅうあん)が少し離れた武者小路沿いにあることに由来します。

利休の茶の精神を受け継ぐ3つの千家を総称して三千家(さんせんけ)と言います。

千利休と豊臣秀吉二人の関係

華美を好んだ秀吉と簡素をきわめる利休。茶の湯に対する姿勢はまったく違っていました。しかし、その一方で秀吉は利休の審美眼に絶大な信頼を寄せてもいました。

蜜月関係にあった二人には、数多くの逸話が残されています。その中から特に有名なものを紹介します。

また、利休の死に関する謎についても触れていきます。

美しさを際立たせた一輪の朝顔

花にまつわる逸話としてよく知られているのが、茶話指月集(さわしげつしゅう)にある朝顔についてでしょう。

利休の屋敷に咲く朝顔が見事だと聞きつけた秀吉は、庭一面に咲き誇る朝顔を期待しながら利休を訪ねたに違いありません。しかし、秀吉が目にしたのはすべて引き抜かれたなにもない庭でした。

そして、招き入れられた茶室には、ただ一輪だけの朝顔が飾られていたのです。

その一輪は、利休が丹精込めて育てた花々の中から選りすぐられたものだったでしょう。

ほの暗い空間に鮮やかに咲く一輪の朝顔という構図もさることながら、秀吉好みの派手さをしりぞけ、たった一輪だけに絞った利休の妥協を許さない美意識のすごさが感じ取れます。

利休の死に至る理由

利休が切腹したのは天正19年(1591年)2月28日。しかし、秀吉が利休に切腹を命じた理由はよくわかっておらず、真相は謎に包まれています。

有力な説としては、大徳寺三門の木像説があります。

金毛閣と呼ばれる三門(正門)の上層階に安置された利休の木像が雪駄を履いた立像であったことから、三門をくぐる際に土足で頭を踏みつけられるのに等しい侮辱を与える。これが秀吉の逆鱗に触れたのです。

もちろん、ただのこじつけにすぎないのは間違いないでしょう。

本当の理由は、利休が朝鮮への出兵に反対したこと、権力を持ちすぎた利休に反感を抱く臣下の存在などがあげられてはいますが、そもそも武士ではない利休に切腹を命じることの不自然さはぬぐえません。

そして、伏して命乞いをすれば助かるはずだという助言があったにもかかわらず、必然性のない切腹を受け入れた利休の胸のうちもまた謎のまま残されているのでした。

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茶道具の買取についてはこちらの記事も是非参考にされてください。

まとめ

今回は二人の天下人に仕え、茶人として大きな功績を残した千利休についてご紹介しました。

利休が愛した茶の湯には、茶碗や棗、水差しといった多種多様な茶道具を用います。

もし、お手持ちの茶道具の売却をお考えであれば、ぜひ獏までご連絡ください。箱がない、値打ちがあるかどうかわからないなどの場合にもしっかりと対応いたしますので、お気軽にご相談ください。
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