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円山応挙の代表作品を紹介|犬や幽霊を題材に多くの有名な障壁画・水墨画の特徴も解説

円山応挙は、1733年に現在の京都府に生まれた絵師です。10代後半より狩野派に師事したほか、20代は眼鏡絵を描いていました。30代頃より「応挙」を名乗り、その時期よりパトロンがつき始めて40代では数多くの屏風絵や障壁画を描きました。彼が築いた「円山派」は、明治以降の近代日本画に大きな影響を与えました。

また、円山応挙の代表作品としては、可愛らしい子犬でお馴染みの「朝顔狗子図杉戸」があります。グッズとして引用されることが多いこの作品は、日本美術が好きな方であれば一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。


円山応挙の代表作品を解説

ここでは、円山応挙の代表作品を紹介します。国宝に指定された「紙本淡彩雪松図」から、日本美術ファンなら知っている人が多いであろう子犬でお馴染みの「朝顔狗子図杉戸」など、彼の卓越した描写力を実感させられます。


紙本淡彩雪松図|雪(国宝)

「紙本淡彩雪松図」は、国宝に指定されている作品です。円山応挙がパトロンである三井家のために描いた作品と言われており、三井記念美術館に収蔵されています。雪の重みで垂れ下がった松の枝や、幹や枝葉へ背景の金泥を塗ることによって塗り残しの部分の白さを雪に見立てる巧みな作品となっています。


朝顔狗子図杉戸|子犬

「朝顔狗子図杉戸」は、子犬が描かれた作品で、日本美術でも有名なものでしょう。この子犬はグッズなどにも引用されており、多くの日本美術ファンから愛されています。楚々とした朝顔のそばで子犬たちが戯れている様子は非常に愛らしく、和やかな気持ちにさせてくれます。もともと杉戸絵として描かれたこの作品は、廊下の間仕切りとして使われていました。まるでこの可愛い子犬たちが屋敷の中にいるようで、住人たちも子犬たちに癒されていたことでしょう。


返魂香之図|幽霊

「返魂香之図」は、久渡寺は青森県にある真言宗智山派の寺院に描かれています。足のない幽霊画で知られる作品は、歴史的価値が大きく高まったことから令和3年5月25日に弘前市有形文化財に指定されました。毎年旧暦の5月18日にこの作品を公開していましたが、不思議にもその日には雨が降ると長らく語り継がれてきました。円山応挙はこの作品をどのような思いを込めて描いたのでしょうか。


三十三間堂通し矢図|眼鏡絵

「三十三間堂通し矢図」は、京都の三十三間堂を描いた眼鏡絵です。眼鏡絵とは、西洋画の遠近画法のようなもので、メガネのレンズをはめた「覗きメガネ」で見る風景画のことで、立体感や奥行きが表現されています。

この作品ではまさしく、三十三間堂の広がりを体現した構図となっています。西洋画の遠近図法を使って描いたかのような緻密な空間表現ゆえ、円山応挙の描写力の高さを実感させられる作品といえるでしょう。


花鳥山水人物写生図巻|鳥

「花鳥山水人物写生図巻」は、様々な花鳥を描いた作品です。円山応挙が作品を描く際に何よりも大切にしたのは写生でした。先ほど紹介した「三十三間堂通し矢図」からもわかるように、彼の描写力は極めて高いものでした。

円山応挙が生きていた当時は、画業を目指す者は師から学ぶことが大半でしたが、彼はほとんどを独学で学びました。好奇心が強くなければそのようなことはできないでしょう。この作品からは描写力だけでなく、彼の自然への敬意も感じられます。



円山応挙の代表作品の特徴

円山応挙は、10代後半頃より狩野探幽の流れを引く狩野派の画家・石田幽汀(いしだゆうてい)に師事していました。そのため、伝統的な日本画の特徴である狩野派の画風を得意としています。

また、20代の頃には眼鏡絵に興味を持ち、京都の風景を眼鏡絵で制作するようになりました。眼鏡絵とは、西洋画の遠近画法のようなもので、メガネのレンズをはめた「覗きメガネ」で見る風景画のことで、円山応挙は立体感や奥行きのある作品も得意としています。

そして、ほぼ独学で自分自身の画風である「円山派」を確立しています。中国画で用いられていた写生の技術を研究していましたが、そのような中で伝統的な日本の装飾画法と写生を融合させた独自の画風を確立し、それが「円山派」となりました。円山派では写生を重要視しており、彼以降の日本美術に多大な影響を与えました。



円山応挙の代表作品が鑑賞できる美術館・寺社

ここでは、円山応挙の代表作品を鑑賞できる美術館や寺社を紹介します。円山応挙ゆかりの京都はもちろんのこと、パトロンであった三井家が創設した美術館、そして彼の作品がある寺社を紹介しています。


相国寺 承天閣美術館

相国寺 承天閣美術館では、2023年9月10日より「若冲と応挙」が開催されています。同時期に京都で活躍したふたりの絵師である円山応挙と伊藤若冲の活躍を見ることができます。また、立地からも京都の歴史を深く感じることができるでしょう。

住所:〒602-0898 京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701 相国寺内 相国寺承天閣美術館
アクセス:
地下鉄烏丸線今出川駅下車
京都市バス烏丸今出川下車
京都市バス同志社前下車
営業時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
料金:企画展観覧料の内容によって異なる
公式HP:https://www.shokoku-ji.jp/museum/


久渡寺

久渡寺は、青森県にある真言宗智山派の寺院です。王志羅講(大白羅講)や円山応挙が制作した幽霊画で知られています。この幽霊画は、歴史的価値が大きく高まったことから令和3年5月25日に弘前市有形文化財に指定されました。

住所:〒036-8244 青森県弘前市坂元山元1
アクセス:
各線弘前駅から車で20分
営業時間:9:00~16:30
公式HP:https://kudoji.com/category/news/


三井記念美術館

三井記念美術館は、円山応挙のパトロンであった三井家が創設した美術館です。それゆえ、これまで三井家がパトロンとして庇護してきた絵師やアーティストなどの作品を所蔵しています。例に漏れず円山応挙も含まれ、国宝「雪松図屏風」をはじめとした作品が所蔵されています。

住所:〒103-0022 東京都中央区日本橋室町2-1-1 三井本館7階
アクセス:
各線三越前駅、日本橋駅
営業時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
料金:企画展観覧料の内容によって異なる
公式HP:https://www.mitsui-museum.jp/index.html


東京藝術大学大学美術館

東京藝術大学大学美術館では日本美術に功績を残した画家の作品を数多く収蔵しています。円山応挙もそのひとりで、日本美術、とりわけ江戸時代後期にフォーカスをあてた企画展で作品が展示されることでしょう。

住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園11-8
アクセス:
JR上野駅(公園口)、東京メトロ千代田線根津駅(1番出口)より徒歩10分
京成上野駅(正面口)、東京メトロ日比谷線・銀座線上野駅(7番出口)より徒歩15分
営業時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
料金:企画展観覧料の内容によって異なる
公式HP:https://museum.geidai.ac.jp/


東京富士美術館

東京富士美術館では、2019年に江戸時代に活躍した有名絵師の描いたユーモラスなキャラクター作品をテーマに「百花繚乱 ニッポン×ビジュツ展 北斎、広重、若冲、応挙 大集合!風神雷神から日本刀まで」が開催されました。円山応挙だけでなく、葛飾北斎や伊藤若冲などの作品も見ることができました。

住所:〒192-0016 東京都八王子市谷野町492-1
アクセス:
JR八王子駅、京王八王子駅よりバス「創価大正門東京富士美術館」で下車
営業時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
料金:企画展観覧料の内容によって異なる
公式HP:https://www.fujibi.or.jp/


円山応挙の代表作品の買取相場・値段

円山応挙の代表作品の買取相場や値段は、全体的に非常に高い傾向にあります。保存状態が高かったり、良好で人気のある作品ですと、買取価格が300万円となった可能性があります。やはり、日本美術シーンに大きな影響を与えた円山応挙となりますと、人気作品であれば買取額も高値になることが期待されます。

とはいえ、高値で買い取ってもらうには、作品が綺麗な状態であることが大切です。たとえ模写や版画であったとしても、シミや汚れがある場合とそうでない場合とでは、買取価格が大きく変わります。作品の入手後は劣悪な環境で保管しないよう、温度と湿度の管理を徹底しましょう。また、物理的なリスクを伴うキズを作らないためにも、保管場所に余計なものを置かないことであったり、作品に触れる際に細心の注意を払うことも大切です。

また、買取に際しては、様々な美術品買取専門店がありますが、専門店の選び方も大切になってきます。長きにわたって営業していたり、買取実績が豊富な専門店であれば信頼をおいても良いでしょう。また、専門店のオフィシャルサイトから店のブログをチェックすることで信頼性がさらに高まります。実際に専門店に足を運び、店員と話しながら信頼をおける店かどうか感覚で判断するのも良いでしょう。



円山応挙の略歴

円山応挙は1733年に現在の京都府に生まれた絵師です。10代後半より狩野派に師事したほか、20代は眼鏡絵を描いていました。30代頃より「応挙」を名乗り、その時期よりパトロンがつき始めて40代では数多くの屏風絵や障壁画を描きました。彼が築いた「円山派」は、明治以降の近代日本画に大きな影響を与えました。


1750年頃:京都で狩野派の画家である石田幽汀に師事する

円山応挙は、1733年丹羽国(現在の京都府)に農家の次男として生まれました。10代後半に京に出て、狩野探幽の流れを引く狩野派の画家・石田幽汀(いしだゆうてい)に師事します。

狩野派とは室町時代中期から江戸時代末期まで、約400年にわたって活動していた画壇の中心となった専門絵師集団で、幕府の御用絵師として襖や障壁画などを制作していました。石田幽汀もそのひとりで、絵師としてだけでなく教育者としても優れていました。


1759年:20代の修行期には京都風景の眼鏡絵を多数制作した

円山応挙は、絵の修行のかたわらで、ガラス製品や人形を扱う京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商に勤めていました。その際にオランダから輸入されていた眼鏡絵に興味を持ち、京都の風景を眼鏡絵で制作するようになりました。眼鏡絵とは、西洋画の遠近画法のようなもので、メガネのレンズをはめた「覗きメガネ」で見る風景画のことで、立体感や奥行きが表現されています。

眼鏡絵で制作された作品としては、「四条河原遊涼図」、「石山寺図」、「賀茂競馬図」、「円山座敷図」、「三十三間堂図」などがあります。


1766年:30代で円山派の技法を確立し「応挙」の雅号を名乗る

30代になると円山応挙は、円山派の技法を確立し「応挙」の雅号を名乗りはじめました。円山応挙は、眼鏡絵の他にも中国画で用いられていた写生の技術を研究していましたが、そのような中で伝統的な日本の装飾画法と写生を融合させた独自の画風を確立し、それが「円山派」となりました。

そして、「応挙」の雅号の由来としては、「銭舜挙(中国宋末、元初の画家)に応ずる」という意味があります。中国の大家に劣らない水準の絵を描こうという意欲ゆえ名付けたようです。


1772年~1781年:40代で屏風絵の代表作品をいくつも生み出し多数の弟子もとる

40代の円山応挙は、屏風絵の代表作品を数多く生み出し、弟子もとるようになりました。代表作としては、「雨竹風竹図屏風」(京都・円光寺)、「藤花図屏風」(東京・根津美術館)、「雪松図」(国宝)、「四季草花図」(袋中庵)が挙げられます。

また、三井寺円満院の祐常門主だけでなく、​​豪商三井家、また妙法院門跡真仁法親王が彼のパトロンとなり、様々な障壁画を制作しました。代表的な障壁画としては兵庫の大乗寺、郷里穴太の金剛寺の障壁画群が挙げられます。


1793年~1795年:病気と老衰で歩行能力・視力を失うが死去する直前まで創作活動を続ける

晩年の円山応挙は、病気と老衰で歩行能力・視力を失うが死去する直前まで創作活動を続けました。「見立江口の君図」や「四季遊戯図巻」などといった作品は浮世絵に近しい作風として知られています。

寛政3年に63歳でこの世を去ったものの、円山応挙が培った円山派は、明治までの長い間、美術史での重要な存在として確固たる地位を保ちました。近代日本画の展開の基盤となり、現代も彼の作品に影響を受けている画家は少なくありません。



円山応挙に関する豆知識(トリビア)

ここでは、円山応挙に関するトリビアを紹介します。彼の作品の特徴である写生を大切にしていた点がよくわかるエピソードであったり、どのように画業を積んでいたのかというエピソードなど、様々なトリビアを紹介します。


「萬誌」によると応挙は常に写生帖を携帯しており暇さえあればスケッチしていた

「萬誌」によると応挙は常に写生帖を携帯しており暇さえあればスケッチしていたようです。萬誌とは、日常雑事を記録した書物のことで、円山応挙のパトロンであった祐常が残していました。円山応挙は自分自身の作品の中でも写生を重要視していたことがよくわかるエピソードです。


応挙は絵師を目指しながら生活のためにおもちゃ屋で働いていた

円山応挙は、絵の修行のかたわらで、ガラス製品や人形を扱う京都四条通柳馬場の尾張屋中島勘兵衛という玩具商に勤めていました。その際にオランダから輸入されていた眼鏡絵に興味を持ち、京都の風景を眼鏡絵で制作するようになりました。眼鏡絵とは、西洋画の遠近画法のようなもので、メガネのレンズをはめた「覗きメガネ」で見る風景画のことで、立体感や奥行きが表現されています。


西国三十三箇所の観音霊場のうち、第二十一番札所の穴太寺には「円山応挙誕生地」の石碑がある

西国三十三箇所の観音霊場のうち、第二十一番札所の穴太寺には「円山応挙誕生地」の石碑があります。穴太寺はJR山陰本線(嵯峨野線)亀岡駅が最寄駅です。京都の嵯峨野の緑の多い土地で育った円山応挙は、そこでたくさんの自然と触れ合うことによって後の写生を重要と考える画法に繋がったのではないでしょうか。


兵庫県の大乗寺で障壁画の約45点が特別公開される展覧会が2023年3月まで開催

兵庫県の大乗寺で障壁画の約45点が特別公開される展覧会が2023年3月まで開催されていました。大乗寺とは「応挙寺」と呼ばれる寺社で、今回は円山応挙自ら筆を取った「孔雀の間」「芭蕉の間」「山水の間」の原物を見ることができました。彼は40代のころにパトロンの依頼で様々な寺社の障壁画を手がけていました。



円山応挙の代表作品の買取なら美術品買取専門店「獏」へご相談ください

円山応挙は、10代後半より狩野派に師事し、20代は眼鏡絵を描きながらほぼ独学で画を学びました。30代頃より「応挙」を名乗り、その時期よりパトロンがつき始めて40代では数多くの屏風絵や障壁画を描いた、当時としては比較的大器晩成型の絵師だったのではないでしょうか。そして、何よりも彼が築いた「円山派」は、明治以降の近代日本画に大きな影響を与えました。

当店では現在円山応挙作品の買取を強化しています。アート作品は価値の判断が難しいため、スタッフが念入りに査定いたします。また、陶芸作品だけでなく、茶道具や絵画など幅広く買取いたします。買取の流れや買取実績、ご不明点などございましたらお気軽にお問い合わせください。