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谷文晁の作品の買取価格|大物画家を弟子に持ち富士山を好んで描いた絵氏の代表作を紹介

谷文晁は、1763年に生まれた文人画家です。幼い頃より文学に触れていたうえに画に対する好奇心が旺盛で多様な絵画を学びました。松平定信のもとで仕えていた際に写生の技術を習得しました。

また、無類の旅好きであり、それを活かした作品「日本名山図会」では日本の有名な89の山岳が描かれています。そのほかには、経営者としての才能があり、自分自身の名前を巧みにこの世の中に知らしめました。谷文晁は絵師としてだけでなく、多方面でも活躍していました。



谷文晁の代表作品を推定価格とともに紹介

ここでは、谷文晁の代表作品を紹介します。その作品として、「日本名山図会」「公余探勝図巻」「八仙人図」「絹本著色木村蒹葭堂像」、そして「石山寺縁起絵巻稿本」が挙げられ、彼の描写力だけでなく芸術性も窺い知れるでしょう。


日本名山図会

「日本名山図会」は、日本の有名な89の山岳を90葉の画で描いた作品です。旅好きな谷文晁だからこそ描ける日本の山のリアルな姿でしょう。30歳頃まで無類の旅好きであった彼ゆえの、旅先で訪れる自然への感動が表れているかのように思える作品といえます。


公余探勝図巻

「公余探勝図巻」は、寛政5年の春に幕府からの命令を受けた松平定信が海防警備のために、相模や伊豆の沿岸を巡視した際に谷文晁が描いた作品です。当時松平定信の近習(主君のそば近く仕える家来)として勤めていた彼は、彼に随行して様々な写生をしていました。色合いのニュアンスまでもリアリティに富んだ作品となっています。写真がなかった時代ゆえ、描写力の豊かな画家が幕府からも重宝されていたのでしょう。谷文晁の作品は、芸術性だけでなく描写力も優れていたのです。この作品からは彼の力量がうかがえます。


八仙人図

「八仙人」とは、中国の8人の仙人である李鉄拐(りてっかい)、漢鐘離(かんしょうり)、呂洞賓、(ろどうひん)、藍采和(らんさいわ)、韓湘子(かんしょうし)、何仙姑(かせんこ)、張果老(ちょうかろう)と曹国舅(そうこっきゅう)のことです。当作品「八仙人図」は、1825年に描かれたもので谷文晁は同時期に松平定信の命令を受けて古文化財を調査して古書画や古宝物の写生を行っていました。その後、古文化財図録「集古十種」の編纂にも携わることになりました。


絹本著色木村蒹葭堂像

「絹本著色木村蒹葭堂像」は、木村蒹葭堂の肖像画です。木村蒹葭堂とは、谷文晁と同時代に活躍した江戸時代中期の日本の文化人で、文人・文人画家・本草学者・蔵書家・収集家として幅広く活躍していました。

幼い頃より谷文晁は様々な文学に親しんでおり、早くより文人画家としての素養を培っていたといえるでしょう。そのようななか、文人の極みともいえる存在である木村蒹葭堂を描いたのは、木村へのリスペクトがあったためなのかもしれません。


石山寺縁起絵巻稿本

「石山寺縁起絵巻稿本」は、鎌倉時代の原本が失われた作品の補作を谷文晁が修復した作品です。古画に典拠を求め、私意を交えないよう命じられた文晁は「伴大納言絵巻」や「春日権現験記絵巻」を参考にした図をたくみに組み合わせました。



谷文晁の作品をより高く買い取ってもらう方法

谷文晁作品はアートマーケットで数多く出回っています。そのような中でも高く買い取ってもらえる方法を紹介します。ポイントとなるのは買取専門店の選び方や作品の状態、本物かどうか証明されているか、といった点です。


なるべく綺麗な保存を心がけてこまめな手入れを行う

高く買い取ってもらううえで大切なのは、作品が綺麗な状態であることです。たとえ模写や版画であったとしても、シミや汚れがある場合とそうでない場合とでは、買取価格が大きく変わります。

そのため、作品の入手後は劣悪な環境で保管しないよう、温度と湿度の管理を徹底しましょう。また、物理的なリスクを伴うキズを作らないためにも、保管場所に余計なものを置かないことであったり、作品に触れる際に細心の注意を払うことも大切です。


共箱や鑑定書などの付属品も揃えておく

また、鑑定書があれば作品とともに提出することも高額買取のポイントとなります。鑑定書とは「美術業界や作家の関係者が設立した公的な鑑定機関が発行した、真筆の証明書」のことを言い、鑑定書を提出することで作品が本物であることを証明できます。

本物かどうかが分からなくなると買い取る側も不安に感じてしまいます。鑑定書制度とは専門家のような深い知識が無い方も安心して本物の作品を購入できるようにと作られた制度で、美術市場の停滞を防ぐために存在しています。


実績が豊富な美術品買取専門店に依頼する

買取に際して、様々な美術品買取専門店がありますが、専門店の選び方も大切になってきます。長きにわたって営業していたり、買取実績が豊富な専門店であれば信頼をおいても良いでしょう。また、専門店のオフィシャルサイトから店のブログをチェックすることで信頼性がさらに高まります。実際に専門店に足を運び、店員と話しながら信頼をおける店かどうか感覚で判断するのも良いでしょう。

獏では国内外の数多くの作品を高額で、適切な価格で買取しています。電話やメール、LINEでの査定も可能です。



谷文晁の落款がある作品にも偽物が多いため鑑定を依頼する際は注意

谷文晁の作品は落款がある作品であっても偽物が多いと言われています。というのも、彼は画塾で自分の落款を誰でも自由に使えるよう開放していたようです。そのようなこともあり弟子の多くが自身の作品に文晁の落款を押して文晁の作品として販売していたと言われています。

そのため、谷文晁の作品と思いきや実は弟子の作品である可能性が考えられる場合があります。鑑定を依頼する際は実績がわからない専門店でなく、実績が豊富で、なおかつ江戸時代の美術に詳しいスタッフがいる専門店を選ぶと良いでしょう。



谷文晁の略歴

谷文晁は、1763年に生まれた文人画家です。幼い頃より文学に触れていたうえに画に対する好奇心が旺盛で多様な絵画を学びました。松平定信のもとで仕えていた際に写生の技術を習得し、多くの弟子を輩出する塾を開くなど晩年まで精力的に活躍しました。


1763年:田安家の家臣で詩人として有名な谷麓谷の子として生まれる

谷文晁は1763年に田安家の家臣で詩人として有名な谷麓谷の子として生まれました。彼の祖父の谷本教ははじめ下役人でしたが、経済的手腕に優れていたため立身し、民政家となり、田安家に抜擢されて成果をあげました。

また、父の谷麓谷も田安家の家臣となり、漢詩人として有名でした。このような文雅の家系に育った文晁は文才を持ち合わせ、和歌や漢詩、狂歌などにも触れました。多才な一家で育った彼は幼い頃から画業のセンスを磨いていたのでしょう。


1775年~1789年頃:狩野派の加藤文麗や南蘋派の渡辺玄対などさまざまな宗派の画を学ぶ

谷文晁は12歳頃より父の友人で狩野派の加藤文麗に学び、18歳の頃に南蘋派の中山高陽の弟子である渡辺玄対に師事しました。様々な宗派の画を学んだことが、バラエティ豊かなその後の彼の作風に影響を及ぼしました。

その後も彼は画を学び続け、20歳のとき加藤文麗が亡くなったため北山寒巌の元で北宋画を学ぶほか、鈴木芙蓉にも学んだと言われています。その後も狩野光定から狩野派を学び、大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、さらに朝鮮画、西洋画も学びました。


1792年:松平定信に認められ近習となり定信付として仕えた

谷文晁は26歳の時に田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世しました。30歳になると、田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり、その後は定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。代表的な彼の近習としての活躍としては、寛政5年(1793年)に定信の江戸湾巡航に随して「公余探勝図」を制作したことが挙げられます。また、定信の命令を受けて古文化財を調査して古書画や古宝物の写生を行いました。


1804年:今までの硬質な画風から粗荒な「鳥文晁」に変わる

谷文晁はその画業の前半と後半で作風が大きく変わります。主に寛政期を中心とした「寛政文晁」と、文化後半以降の「鳥文晁」の2つの時代に分けられます。これまでの画風では硬質立ったものの、「鳥文晁」ではさらに粗荒な作風に変わりました。


1829年~1837年頃:御絵師の待遇を得て剃髪し法眼位に叙されたのを機に文阿弥と号する

谷文晁が開いた画塾・写山楼には多くの弟子が入門し、渡辺崋山・立原杏所などのちの大家を輩出しました。そのようななか、亀田鵬斎、酒井抱一とは「下谷の三幅対」と言われるほど、享楽に耽り遊びに興じましたが、最期まで彼は筆をふるっていました。

谷文晁は晩年に近くなると、文政12年(1829年)に松平定信が亡くなり、67歳になった文晁は御絵師の待遇を得て剃髪しました。そして、75歳の時に法眼位に叙され、文阿弥と号するようになりました。そして、天保11年(1841年)に享年79歳でこの世を去りました。



谷文晁の作品の世界観・特徴

谷文晁は幼少期より様々な文学に触れてきたうえ、幅広い絵画を学んでいました。そのため、文学性に溢れた多様な作品を残しています。とりわけ「寛政文晁」とよばれる時期の作品は滋潤な墨色と清新な画風で評価が高い傾向にあります。



谷文晁の作品が鑑賞できる主な美術館一覧

ここでは、谷文晁の作品が鑑賞できる美術館を紹介します。代表的な美術館としては、サントリー美術館、群馬県立近代美術館、栃木県立美術館、東京藝術大学大学美術館が挙げられ、谷文晁にまつわる展覧会もかつて開催されました。


サントリー美術館

サントリー美術館では、2013年に谷文晁生誕250周年を記念した展覧会が開催されました。同美術館が収蔵している谷文晁の作品のほか、彼にまつわる絵師など幅広く作品が展示された大規模展覧会となりました。

住所:〒107-8643 東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア 3階
アクセス:
各線六本木駅より直通
営業時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
料金:
企画展観覧料の内容によって異なる
公式HP:https://www.suntory.co.jp/sma/


群馬県立近代美術館

関東南画の絵師として知られる谷文晁は、江戸時代後期の関東の芸術を盛り上げました。2021年には関東南画の絵師を特集した企画展「関東南画のゆくえ 江戸と上毛を彩る画人たち」が開催されました。

住所:〒370-1293 群馬県高崎市綿貫町992-1 群馬の森公園内
アクセス:
タクシーの場合、JR高崎駅東口より約20分。JR倉賀野駅より約10分。JR新町駅より約10分。
JR高崎線・湘南新宿ライン・上野東京ラインまたは上越・北陸新幹線で高崎駅下車
JR高崎駅東口より、市内循環バスぐるりん「群馬の森線」9系統(約38分)、10系統(約26分)、または「岩鼻線」15系統(約25分)で「群馬の森」下車(200円)
営業時間:9:30~17:00(入館は16:30まで)
料金:
一般:300円
高大生:250円
※中学生以下無料
企画展観覧料の内容によって異なる
公式HP:https://mmag.pref.gunma.jp/


栃木県立美術館

関東南画の絵師として知られる谷文晁は、江戸時代後期の関東の芸術を盛り上げました。2023年には「文晁と北斎―このふたり、ただものにあらず」の開催が予定されており、同時期に活躍した2人の著名絵師の作品を堪能できます。

住所:〒320-0043 栃木県宇都宮市桜4-2-7
アクセス:
JR線宇都宮駅よりバスにて15分
東武線東武宇都宮駅よりバスにて5分
営業時間:9:30~17:00(入館は16:30まで可)
料金:
一般:260円(団体は200円)
高大生:120円(団体は100円)
中学生以下は無料
※企画展観覧料は内容によって異なる
公式HP:http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/index.html


東京藝術大学大学美術館

東京藝術大学大学美術館では日本美術に功績を残した画家の作品を数多く収蔵しています。谷文晁もそのひとりで、日本美術、とりわけ江戸時代後期にフォーカスをあてた企画展で作品が展示されることでしょう。

住所:〒110-0007 東京都台東区上野公園11-8
アクセス:
JR上野駅(公園口)、東京メトロ千代田線根津駅(1番出口)より徒歩10分
京成上野駅(正面口)、東京メトロ日比谷線・銀座線上野駅(7番出口)より徒歩15分
営業時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
料金:企画展観覧料の内容によって異なる
公式HP:https://museum.geidai.ac.jp/


谷文晁に関するトリビア(豆知識)

ここでは、谷文晁に関するトリビアを紹介します。谷文晁は絵師としてだけでなく経営者としての側面があったり、旅が好きであったりと只者でない才能豊かな人物であるということがわかるでしょう。


谷文晁は旅好きで30歳まで日本全国を旅していたとされる

谷文晁は旅が好きで30歳の頃まで日本全国を旅していたと言われています。さらに彼は行ったことのない場所は日本で4~5か所ほどしかないとのことです。交通の便が発達した現代人にとっても行ったことのない日本の地は沢山あるでしょう。
もし、谷文晁が現代に生きていたとしたら日本全国だけでなく世界中へ旅をしているはずです。今の便利な時代にもし谷文晁が画家として活躍していたらどのような作品を残すのか気になります。


画塾「写山楼」を開き渡辺崋山や立原杏所などの将来の大物絵師を弟子に持った

谷文晁は、画塾「写山楼」を開いて渡辺崋山や立原杏所などの将来の大物絵師を弟子に持ちました。画塾の名前の由来は、富士山の眺望が大変良かったためだと言われています。この塾ではきっちりとした指導ではなく、生徒の自由に任せて個性を尊重する指導だったようです。

なかでも、谷文晁は鎖国政策に対して危機感を唱えた渡辺崋山に特段の愛情を注いでいたと言われています。


経営の才能もあり、大晦日に富士山の扇子を使い街中に落とすことで口コミ効果を利用した

谷文晁は、絵画の才能だけでなく経営の才能も大晦日に富士山の扇子を使い街中に落とすことで口コミ効果を利用しました。「正月に富士山とは縁起がいい」という人々の喜びが、谷文晁の知名度にも繋がりました。

というのも彼の祖父の谷本教ははじめ下役人でしたが、経済的手腕に優れていたため出世しています。彼もそのような家系の血を引き継いだのでしょう。そして、現代もなお谷文晁は絵師としてでなく経営者としても評価されています。



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骨董品の価格は、ほぼ需要と供給の関係で決まるため、美術と違って欲しい人がいればその分買取価格が高額になります。また、作品の希少性も高額買取に大切なポイントとなります。

比較的新しい作品は材料費や人件費等の経費から販売価格が算出されますが、古い作品になると二次流通では仕入れ値自体が相場に反映されて決定されるために、値段の決定方法が通常の場合と異なります。骨董品では作品自体の価値や状態のほか、需要と供給も買取価格に加味されます。


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谷文晁の作品の価格は美術品買取専門店「獏」にご相談ください

谷文晁は江戸時代後期に活躍した絵師です。幼い頃から幅広い文学作品だけでなく絵画にも触れてきました。多様な作品を残すだけでなく、敏腕経営者としての側面を持つ多才な人物です。

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