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文学者でもあり画家でもあった武者小路実篤の代表作を紹介

武者小路実篤は白樺派の作家として数多くの優れた作品を残しています。また彼は30代の終わり頃から絵を描き始め画家としても優れた仕事をしました。特に晩年になって制作した数多くの水彩画の色紙は多くの人に親しまれています。この記事では彼の画家としての側面に焦点を当て、いくつか色紙の代表作もご紹介して行きます。

武者小路実篤の略歴

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)は1885年(明治18年)5月12日、東京府東京市麴町区(現在の東京都千代田区)に生まれました。武者小路家は江戸時代から続く公家の由緒ある家系です。
成人した実篤は小説家・画家として数多くの優れた作品を残し、1976年4月9日、東京都狛江市の慈恵医大付属病院で90歳の長寿を全うしました。

文学を志す青年時代

実篤は1891年、学習院初等科に入学します。そして学習院中等学科6年の時に2歳年長の同級生(志賀がスポーツに熱中して留年したため)志賀直哉と親しくなり、共に文学を志す生涯の友情を育みました。
1906年、東京帝国大学哲学科社会学専修に入学し、翌1907年、学習院の時代から同級生であった志賀直哉らと作った同人「14日会」において創作活動を始めます。
この年東京帝国大学を中退し、1910年に志賀直哉、有島武郎らと雑誌「白樺」を創刊しました。これによって彼ら同人は「白樺派」と呼ばれ、学習院高等学科時代からトルストイに傾倒して聖書なども読んでいた実篤は白樺派の精神的支柱の役割を果たします。
「白樺」の創刊号に掲載された「『それから』について」が夏目漱石との親交の機縁となりました。

文学活動の一方、理想郷「新しき村」創設

実篤は「誰もが人間らしく生きて個性を生かせる理想的な社会、階級闘争の無い社会の実現を目指す構想を発表し、これに共鳴する人たちが集まって、1918年、宮崎県児湯郡木城村に、村落共同体「新しき村」が創設されました。その後、この村はダムの建設のために多くの部分が水没するため、1939年、埼玉県入間郡毛呂山町に別の「新しき村」が作られました。
実篤は創設から6年後の1924年、創作・執筆活動に専念するために離村して会費のみを納入する村外会員になりましたが、新しき村の象徴的存在の役割を果たし続けます。
上記の2つの村は現在も存続しており、現代の資本主義的競争社会の中では異色の存在として、当初の理想を貫いているのは驚くべきことです。

文化勲章受章

1923年(大正12年)には関東大震災で生家が消失し、さらに「白樺」も終刊となるなど、失意の時期でしたが、この年長女の誕生をきっかけにスケッチ、淡彩画、油絵を描き始めました。
1936年4月、ヨーロッパ旅行に出発し、元来美術に関心の高かった実篤は、ヨーロッパ各地の美術館や画家のアトリエを訪問して深い感銘を受けました。この旅行中に受けた人種差別の苦い経験も、後に彼がとる太平洋戦争賛成の立場の一因ではないかと言われています。
1946年9月、戦中の戦争協力のために公職追放となりましたが、1951年(昭和26年)には追放解除となり、同年に文化勲章を受賞しました。
晩年には、自分が到達した穏やかな心境を表現する野菜の絵に一文を添えた色紙を盛んに描くようになります。
1955年に東京都調布市仙川に移住して最後の20年をここで過ごし、1976年4月、東京都狛江市の東京慈恵会医科大学附属病院で尿毒症のために90歳の生涯の幕を閉じました。

武者小路実篤の世界観

実篤が創設した「新しき村」は今も現存しており、その入り口のポールには「この門に入るものは自己と他人の生命を尊重しなければならない」という実篤の言葉が記されています。
また「生命が内に充実するものは美なり」という言葉も同じく実篤の遺したものです。
要するに全ての「生きとし生けるものへの愛」が90年の生涯を貫く実篤の世界観と言えるでしょう。
「新しき村」を創設した頃の実篤には、ひたすら理想の実現に向かって突き進む姿勢がありました。しかし晩年の実篤はもっと穏やかに現実を受け入れる大らかな心境に至り、それが彼の色紙の画風に現れています。

武者小路実篤の作品を紹介

晩年の実篤は、野菜や果物を水彩で描き、その絵に合う名言の一文を添えた色紙を数多く制作しました。それらの色紙には晩年の実篤の大らかな心境が良く表現されています。
それらの名言の内の3つをご紹介しましょう。
「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」
「君は君 我は我也 されど仲よき」
「共に咲く喜び」

[君は君我は我なりされど仲よき」

実篤の「君は君 我は我也 されど仲よき」という言葉を添えた水彩画の色紙は複数あります。
その内の1つは、左に日本カボチャ、右に西洋カボチャを並べた水彩画の上に上記の言葉が記されており、右下に「八十一歳 実篤」と署名があり、その下に押印があるものです。
各自が独自の自己を確立しているからこそ、互いに相手を尊重し合って仲良くできるのだ、と言っているようです。
もう1つは、左にジャガイモ、右に玉ネギが描かれ、左上に上記の言葉、右下に「実篤」と署名があり、その下に押印があるものです。

「この道より」

実篤の「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」という言葉を添えた色紙も複数あります。その内1つは、1973年、88歳の年に描かれたものです。絵の下の部分には畑の中を通る1本の道が描かれ、その上に2つの低い緑の山、その上の中央に雪を被った高い山が描かれています。さらにその上に上記の言葉、そして米寿、実篤と署名があり、その下に押印があります。米寿を迎えた実篤が、これまでの自分の歩みを振り返り「我が人生に悔いなし」と言っているようです。

「共に咲く喜び」

実篤の「共に咲く喜び」という言葉を添えた色紙では、中央下部に陶器のがっしりした花瓶が描かれ、その花瓶の上に3本の花が顔を出しています。左は赤い花、中央と右は黄色の花です。絵の右下に九十歳、実篤と署名・押印、絵の左側の上部に上記の言葉が記されています。九十歳ですから、最後の年の作品です。実篤は「殊に花なぞはある瞬間に美の極致を発揮すると思う」という言葉を遺していますが、そういう彼の花を愛する心が伝わって来ます。

武者小路実篤の作品はどこでみれるのか

実篤が絵筆を取るのは1923年の長女の誕生がきっかけと言われるので、30代の終わりごろです。スケッチや淡水画、また油絵も描きます。さらに晩年に至って、淡水画に名言の一文を添えた色紙を盛んに描きました。これらは個人の住宅や地方の美術館などにも小規模に収蔵されていますが、まとまった量のコレクションが見られるのは、以下にご紹介する東京都調布市の「調布市武者小路記念館」と埼玉県入間郡の「武者小路実篤記念 新しき村美術館」です。

調布市武者小路実篤記念館

調布市武者小路実篤記念館は、実篤が1955年から1976年に没するまで最後の20年間を過ごした邸宅に隣接して建造され、1985年10月に開館されました。
この記念館には実篤の著書、絵画、書、原稿、書簡、収集した美術品などが所蔵されており、文学、美術関係の色々なテーマによる展覧会が約5週間ごとに開催されています。
所在地・連絡先:〒182-0003 東京都調布市若葉町1-8-30
 TEL: 03-3326-0648 メールアドレス:Fkinenkan@mushakoji.org
開館時間:午前9時~午後5時
休館日:月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
なお、隣接する旧実篤邸とその敷地も「実篤公園」として公開されています。

美しき村美術館

実篤は1918年、宮崎県に「新しき村」を創設しましたが、その後この地のダム建設のため、1939年、第2の「新しき村」が埼玉県入間郡毛呂山町に建設されました。
この第2の新しき村に、1980年、新しき村創立60周年の記念として「武者小路実篤記念 新しき村美術館」が設立されました。
ここには実篤の日本画、油絵、スケッチ、書、原稿などが約400点所蔵されており、さらに実篤の友人長与善郎、倉田百三らの作品、新しき村関連の資料、村の会員の作品なども展示されています。
所在地・連絡先
〒350-0445 埼玉県入間郡毛呂山町葛貫423番地1
TEL: 049-295-5398 FAX: 049-295-5398
開館時間:午前10時~午後5時
休館日:平日の月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日の火曜日)、年末年始(12月26日~1月4日)

武者小路実篤のトリビア(豆知識)

美術に関心が深く、また友情にも篤い個性豊かな武者小路実篤には、その人柄を反映するエピソードがいろいろあるのですが、以下にその内の2つをご紹介します。すなわち、美術品コレクターとしての側面と志賀直哉との間に築いた深い友情です。

美術品コレクターでもあった武者小路実篤

美術に深い関心のあった実篤は古今東西の絵画や彫刻、また陶磁器などのコレクションを遺しています。伝梁楷「松下琴客図」、ルオーの版画、親交のあった画家、岸田劉生の作品などです。特に実篤の死後、遺族から東京都現代美術館に寄贈された絵画の中には驚くべきものがあります。レンブラント《イサクを愛撫するアブラハム》1637年、マティス《椅子に座り物思う裸婦》1906年、またピカソ本人から直接もらったらしいサイン入りの1枚の絵などです。

志賀直哉との深い友情

実篤は学習院中等学科6年で、同級生となった志賀直哉と親しくなり、生涯にわたる深い友情を築きます。白樺派の同人でも一緒でした。この二人は気性においても、また文学的資質においても、大いに異なるものを持っていましたが、互いにそれを認め合った上で、相手を尊重したので、まさに「君は君 我は我也 されど仲よき」の間柄です。
志賀直哉は80歳になる直前に、自宅の庭木を自分で削って2本の杖を作り、1本は自分用、もう1本は実篤用として彼に贈りました。実篤は「歩く時この杖を使うと志賀が一緒にいる気がすると思った」と書いています。

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まとめ

武者小路実篤は白樺派の作家として著名な存在ですが、また画家としても優れた仕事をしています。特に晩年になってから、野菜や果物の水彩画に名言の一文を添えた色紙を数多く制作しました。これらの色紙は美術館ばかりでなく、多くの個人の自宅にも飾られています。武者小路実篤の作品をお持ちの方は、どうぞ美術品買取専門店「獏」にご相談下さい。
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