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日本画で有名な画家10名とその代表作を紹介

洋画との区別で生まれた「日本画」。美術館ではジャンル別に展示されるケースも多いですが、その違いをご存知でしょうか?「日本人の作品でしょ?」とイメージされる方がいらっしゃるかもしれません。いくつか思い浮かぶ作品もあるでしょう。

そこで今回は、日本画と日本画家の特徴や有名作品をご紹介していきます。
厳選したおすすめ作品なので、ぜひご確認ください。

日本画とは?

浮世絵や水墨画を指し、日本の絵画を「日本画」と呼ぶイメージですが、実は画材や技法の違により画風も変わります。「日本の文化だけど詳しく知らない」という方へ、日本画とは何なのか、これからその特徴を解説していきます。

日本画とはどのような絵画なのか?

日本画は墨や岩絵具などの伝統的な画材と、古くからある技法を駆使し描かれた絵画です。油絵具や水彩絵具が中心だった西洋絵画と区別する目的で、明治時代以降に日本画の概念が生まれました。

さかのぼれば江戸時代の狩野派や琳派、土佐派や南画派の絵画も原点と呼べるかもしれません。日本美術が主流だったそれまでは分類の必要性もなかったのですが、明治時代に伝わった西洋絵画がきっかけで、東洋美術史家:フェノロサが発言した「Japanese painting」が訳され、「日本画」と呼ばれるようになったのです。

現代では伝統画材の他に蛍光塗料を使ったアートも誕生し、日本画の新しい表現手法として注目されています。

では、有名画家とその代表作をご紹介しましょう。

竹内栖鳳

1864年~1942年 物故作家。
京都に生まれる。横山大観と並び「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれ、近代日本画を代表する絵師。13歳で四条派の画風を学び、17歳のとき「帝釈試三獣図」で知られる幸野楳嶺を師事し、1883年に京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)へ勤務する。内国勧業博覧会や日本美術協会へ出品し、数々の賞を受賞。人物画に定評はあるが、犬や猫、鳥やライオンなど動物を描いた作品が多く、その描写力は「動物画の一人者」として高く評価される。

「班猫」1924年

八百屋の猫をモデルとした作品。静岡県沼津市へ滞在中、偶然店先で見かけた猫を気に入り、「そうだ、猫を書こう」と思い立って写生。おかみと交渉し、自分の絵と猫を交換して譲り受けました。観察しながら本画を仕上げますが、猫は完成後に姿を消します。伝統的な写生をベースに、西洋絵画や中国古典絵画を取り入れた独自の画風。国の重要文化財にも指定されています。

下村観山

1873年~1930年 物故作家。
和歌山に生まれる。8歳のとき東京へ転居し、父は彫刻を仕事とする。父の門人だった狩野派の画家:狩野芳崖に習い、1886年西洋絵画の遠近法を取り入れた橋本雅邦を師事。1889年、16歳で東京美術学校(現在の東京藝術大学)へ1期生として入学した。卒業したあと助教授への着任やイギリス留学を経て、日本美術院の再興をはかる。44歳で帝室技芸員に抜擢され、晩年は古画の研究に集中した。明治から昭和初期の画家で、日本の伝統を尊重するかたわら西洋絵画の力強さも感じられる。

「弱法師」1915年

弱法師が、四天王寺の庭で瞑想する姿を描いています。これは彼岸の日、沈みゆく太陽に極楽浄土を拝んだ能の一場面。弱法師とは通称。本名は俊徳丸で、父に家を追い出され盲目となった彼は、父に想いを馳せながら諸国を巡っていました。能や狂言の演目に詳しい下村観山ならではの作品です。弱法師は、太陽の光に家族の温もりと仏を感じていたのかもしれません。

鏑木清方

1878年~1972年 物故作家。
東京に生まれる。13歳で浮世絵師に入門。17歳から挿絵画家として活躍し、日本画の制作にも取り組むようになる。作家:泉鏡花の挿絵を描いたことでも有名。美人画や風俗画を手がけ、1927年、第8回帝展へ出品した「築地明石町」が帝国美術院賞を受賞。1954年に文化功労者を表彰され、同年に文化勲章を受章する。明治~昭和を駆け抜け、浮世絵文化を下地に置く美人画で人気を博した。

「一葉女史の墓」1902年

樋口一葉のファンだった鏑木清方は、一葉の墓を訪れた際にスケッチし、それに基づいて制作しています。そのためこの作品は、一葉を目の前にして描かれたものではありません。女性は「たけくらべ」の主人公:美登利で、自宅から持参した造り花も加えました。この花は、作中に登場した水仙の造花をイメージ。憧れの文学が、繊細な筆のタッチと結びついた作品です。

上村松園

1875年~1949年 物故作家。
京都に生まれる。美人画を描き続けた女流日本画家。1887年京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)へ入学し、北宋画の鈴木松年を師事。1890年に第3回内国勧業博覧会へ「四季美人図」を出品し、15歳で一等を褒状。画塾の移動や謡曲の習得を経て、1941年帝国芸術院の会員となった。女性の胸像や上半身像を描き、独自の美人画を世に送り出す。1948年、女性として初めて文化勲章を受章。女性が画家を志すことに理解を得られなかった時代、母親の励ましでその地位を築いた。

「焔」1918年

モチーフは能楽の「葵上」。「葵上」は、紫式部の「源氏物語」を作品化したものです。描かれているのは、嫉妬に心を狂わせた六条御息所の生霊。裾や足を描いていないのは、この女性が生身の人間ではないことを表現しています。背景は他の美人画と同様に無地ですが、暗く沈んだ心の闇を色で再現。激しい怒りと寂しさが演出されています。

前田青邨

1888年~1977年 物故作家。
岐阜に生まれる。1901年、梶田半古へ入門。その翌年に第12回日本絵画協会共進会へ「金子忠家」を出品し、三等賞を受賞する。1922年から約1年間、朝鮮・中国・ヨーロッパへ留学。1930年、「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞を受賞。1955年に文化勲章を受章した。武者絵や花鳥画を得意とし、滲みのグラデーションを加える「たらしこみ技法」で知られる。1974年にローマ法王庁から「細川ガラシア夫人像」を依頼され、バチカン美術館へ納めた。

「真鶴沖」1949年

源平合戦がモチーフ。石橋山の戦いに敗れた源氏が、小船で逃げ出す場面です。「平家物語」の世界を描いた作品はこれまでの色使いと異なり、古典ならではの情緒あふれる味わい深さに彩られています。このあと源頼朝は房総半島まで逃げ伸びますが、創造から生み出された源氏の混乱ぶりがリアルに映し出されているでしょう。

横山大観

1868年~1958年 物故作家。
茨城に生まれる。東京英語学校時代、洋画家:渡辺文三郎から鉛筆画を学ぶ。試験直前に鉛筆画から毛筆画へ受験科目を変更。1889年、東京美術学校(現在の東京藝術大学)へ1期生として入学した。卒業後は、京都市立美術工芸学校予備科の教員となる。そのあと東京美術学校の助教授へ就任。菱田春草らと共に「朦朧体」を編み出したあと、インド・アメリカ・ヨーロッパへ拠点を移し成功する。「朦朧体」は輪郭線を使わず、色彩の濃淡でモチーフを表現し、日本の美術に大きな影響を与えた。

「生々流転」1923年

水墨画の技法が散りばめられた作品で、国の重要文化財に指定されています。「日本一長い絵巻物」として有名。その長さ全長40m。雨水が大河を生み出し大海原となる。竜巻を起こし龍に姿を変えて天へ昇る。水の循環が墨だけで描かれていますが、そこに木こりや漁師も登場させ、生命活動や万物の流転を1つの芸術として完成させているのかもしれません。

東山魁夷

1908年~1999年 物故作家。
神奈川県に生まれる。1983年、東京美術学校日本画科(現在の東京藝術大学)へ進学。結城素明を師事する。1929年に第10回帝展で初入選。卒業後はドイツへ留学するも、父の病状が悪化し帰国した。太平洋戦争後に千葉県へ移住。1947年、第3回日展へ出品した「残照」が特選を受賞し、日本政府に買い上げられたことで脚光を浴びる。昭和を代表する日本画家。風景画を得意とし、青や緑の色使いから「青の画家、東山ブルー」と呼ばれる。

「緑響く」1982年

CMにも使用された名作。信州にある御射鹿池、「ため池百選」にも選ばれた美しい池です。この池をモチーフとし、自然の美しさを描きました。優しく癒される緑と湖のそばを歩く白馬。その光景は湖面にも映し出され、湖の水がどれほど美しさを保っているか伝わるでしょう。落ち着いた色合いが幻想的な風景を生み出し、背景の森と湖を際立たせています。

加山又造

1927年~2004年 物故作家。
京都に生まれる。京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校と京都市立芸術大学)、東京美術学校(現現在の東京藝術大学)を卒業。山本丘人を師事し、1950年に春季創造美術展で初入選。そのあと美術大学で教鞭をとる。ラスコーの洞窟壁画に刺激を受け、西洋絵画の手法を作品へ反映。鶴をモチーフとする作品が有名で、装飾性の高さから「現代の琳派」とも呼ばれた。2003年、文化勲章を受章。晩年は、ペンタブレットを使ったグラフィックスでも表現している。

「千羽鶴」1970年

飛び立つ数千羽の鶴を目にし、それがきっかけで描かれました。左右に配された日月、右から左へ群れをなす鶴、金箔と銀箔がふんだんに使われたこの絵画には、困難を乗り越えて飛躍する姿が表されています。縦155cm横639cmで圧巻のスケール。鶴が羽ばたく躍動感と未来への発展を意識した、優美さと豪華さに出会える作品です。

平山郁夫

1930年~2009年 物故作家。
広島に生まれる。中学時代(現在の修道中学校・高等学校)に被爆を体験し、それがきっかけで平和を祈った作品を手がけるようになる。東京美術学校(現在の東京藝術大学)を卒業。1953年に「家路」で院展の初入選をしたあと、「仏教伝来」も入選を果たす。それ以来、仏教をテーマとする作品を発表。敦煌莫高窟の壁画修復では、岩絵具の手法を指導し、人材の育成にも力を注ぐ。文化財赤十字活動として、カンボジアのアンコール遺跡、中国にある南京城の壁の修復にも貢献している。

「シルクロードを行くキャラバン西・月」2005年

シルクロード作品の1つ。ラクダに乗り、旅するキャラバン隊が描かれています。月に照らされ夜の砂漠を進む姿に、平和への願いを込めました。キャラバン隊の向かう先は、シルクロードの終着点。インドやアフガニスタンを経由し、長い旅路を行きます。過酷な砂漠を進む姿に、そこへたどり着くまでの歴史と時間が宿っているのかもしれません。

千住博

1958年~現在に至る。
東京で生まれる。幼少の頃から美術と触れ合い、1970年に慶應義塾普通部へ進学。部室に持ち込まれたデザイン雑誌の記事に刺激され、画家を志すようになる。1978年、東京藝術大学に入学し、卒業後は大学院へ。稗田一穂を師事し、画家になる決意を固める。1995年にヴェネツィア・ビエンナーレへ出品した「The Fall」が、名誉賞を受賞。2003年、六本木のグランドハイアット東京にある3階ロビーへ、幅25mある滝の作品を提供した。現在はアメリカを拠点とし、活動の幅を広げている。

「ウォーターホール」1996年

千住博が、ヴェネツィア・ビエンナーレおいて、東洋人で初の名誉賞を受賞した作品です。流れ落ちる水の勢いと冷涼な空気感。滝の水しぶきさえも伝わります。漆黒の背景に流れる白い滝は、鑑賞する人を厳かな気持ちへ導くでしょう。そして幽玄な世界に誘ってもらえます。

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まとめ

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「誰の作品かわかる?」「いつ描かれたもの?」という査定の確認だけでもかまいません。
「買取らせて欲しい」と営業することはございませんので、お気軽に利用していただければと思います。
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