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彫刻家・高村光太郎の代表的な作品を紹介

高村光太郎というと、あまりにも有名な『智恵子抄』の印象が強く、詩人だと認識している人も多いかもしれません。教科書にも多く掲載されているため、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
しかしその本質は彫刻家であると自ら語るように、高い技術力とセンスの高さを誇る彫刻を残しています。

この記事では、そんな高村光太郎の経歴や代表作品について解説していきます。



高村光太郎の略歴


主に大正、昭和にかけて活躍した日本を代表する彫刻家であり、画家でもある芸術家。そして詩人でもあり、評論や随筆、短歌などの著作も残しています。
生涯妻・智恵子を愛し続け、自分の人生を妻にささげたともいわれる光太郎。

まずはいかにして高村光太郎という人物ができあがっていったのか、彼の経歴についてみていきましょう。



有名な彫刻家の長男として生まれる


高村光太郎は偉大な彫刻家である高村光雲の長男として、1883年3月13日に現在の東京都台東区で生まれました。本名は高村光太郎(みつたろう)。後に自らこうたろうと称したようです。

1897年9月に、父光雲が教授として働く東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。父と同じ彫刻家の道を歩むこととなります。
この頃、文学にも親しんでいた光太郎は、在学中に与謝野鉄幹の新詩社に入り、篁砕雨(たかむらさいう)の名で『明星』に寄稿していました。
彫刻科を無事卒業し研究科に残るが、1905年に西洋画科に転科。彫刻科の保守的な雰囲気に不満を覚えたようでした。



ロダンの彫刻「考える人」に衝撃を受ける


光太郎がロダンの彫刻を目にしたのは1904年のこと。雑誌の「考える人」の写真を見て衝撃を受けたのです。
1906年には留学のためニューヨークへ。後に大切な友人となる荻原守衛(碌山)、将来妻となる智恵子との縁を取り持つ柳敬助と出会ったのがこの時期でした。また光太郎がロダンのブロンズ像を初めて目にしたのもニューヨークです。

ここで出会った荻原守衛もまた、ロダンに多大な影響を受けた一人。こうして出会った二人は、日本でロダンを紹介した最初の人物となるのです。

その後、ロンドン、パリへと移り住み、ヨーロッパの思想や価値観を大いに吸収し帰国の途に着きました。



本格的にブロンズ塑像へ取り掛かる


1909年に帰国した光太郎は、進歩のない日本美術界に不満を持っていました。
そんな中、神田淡路町に日本初となる画廊「琅玕洞」を開きます。経営的には失敗でしたが、どうやらこの頃の光太郎自身は精神的に不安定な状態であったようです。それを救ってくれたのが後の妻、智恵子でした。

1912年に駒込林町にアトリエを建て、岸田劉生らとともにヒュウザン会を結成。
1914年、詩集『道程』を出版し、長沼智恵子と結婚。

その後彫刻の制作に専念し始め、1916年、未完に終わった塑像「今井邦子像」「裸婦坐像」「手」などを制作していきます。



最後の作品「乙女の像」建立


智恵子との結婚後、共同生活がスタートするも数十年後に智恵子が体調を崩し、闘病の末他界。
悲しみに暮れる中、太平洋戦争が始まり光太郎は戦争協力詩を多く発表します。
1945年4月の東京大空襲によりアトリエや多くの作品が焼失してしまうと、戦時中に作った戦争協力詩への自責の念に駆られ、現在の花巻市に小屋を建て自炊生活を送るようになります。

1952年、青森県より十和田湖国立公園15周年記念像の制作依頼を受け、翌年「乙女の像」として完成。これが高村光太郎最後の作品となりました。

1956年4月2日、肺結核により73歳で智恵子の元へと旅立ちました。


高村光太郎の代表的な作品を紹介


ここからは高村光太郎が生み出した代表的な作品をみていきましょう。

油絵、浮彫、石彫、木彫、塑像などさまざまな作品を制作してきた光太郎ですが、ここでは有名な木彫、ブロンズ像をいくつかご紹介します。
どれも圧倒的な存在感を放っており、惹きつけられる作品ばかりです。



「手」


モデルを雇う余裕のなかった光太郎が、自分の手を見ながら作ったといわれているブロンズ像。
反り返った親指に反し、ふんわりと弧を描く小指。光太郎が20代の頃に見た観世音菩薩の手から思いついた形です。「施無畏(せむい)印」と呼ばれる印を結んでおり、心の恐れを取り除き救うという意味があります。東京国立近代美術館蔵。



「鯰」


光太郎が手掛けた木彫小品の代表作ともいえる「鯰」。1924年からは木彫制作に力を注いでいた時期で、「鯰」は1925年から1931年にかけて3点制作されています。
鯰特有のぬめりのある肌合いを木彫によって見事に表現。体をくねらせゆったり泳ぐ様子が浮かんでくるようです。東京国立近代美術館、メナード美術館蔵。



「成瀬仁蔵胸像」


日本女子大学創立者である成瀬仁蔵。1919年に亡くなると、桜楓会より光太郎のもとへ胸像制作依頼が舞い込みます。試作を重ね14年の年月をかけてブロンズの「成瀬仁蔵胸像」を完成させました。除幕式は1933年4月。
現在、日本女子大学成瀬記念講堂の中央に置かれています。



「乙女の像」


高村光太郎最後の作品となった、十和田湖畔にたたずむ「乙女の像」。裸婦像が二体向かい合っているブロンズ像です。光太郎いわく、二体の背を伸ばして作る三角形が無限を表しており、空間が大切な彫刻において二体の隙間に面白味があるのだそう。

顔のモデルは智恵子ともいわれているが、これは彼自身も見る人に委ねています。体のモデルは藤井照子という当時モデルクラブに所属していた女性でした。



高村光太郎の作風


父である高村光雲より教え込まれた伝統的技術や感性と、ロダンに影響されたヨーロッパの近代造形思考のせめぎ合いと共存の末、本格的な彫刻理論を体系化した光太郎。そして内部生命の躍動を表現する彫刻を作りました。

また、詩人としてのイメージが強い光太郎ですが、彫刻は自分の血の中にあると述べていたように、彫刻への熱意を失うことなく、彫刻を護るために詩を書く必要があったといいます。



高村光太郎の作品が鑑賞できるのは?


高村光太郎の作品を鑑賞できる美術館をご紹介していきます。
常設展示ではなくとも、過去には高村光太郎に関する展覧会が各地で開催されていました。関係の深い芸術家たち、妻の智恵子の作品を同時に展示することも多いようです。



高村光太郎記念館


高村光太郎の7年半に及ぶ山での生活場所となった山小屋・高村山荘に隣接する高村光太郎記念館。
「乙女の像」の中型試作や「手」などの彫刻作品の他にも、独居生活で遺した資料などを数多く展示。また紙絵作家であった妻智恵子の作品も展示されています。

住所  :岩手県花巻市太田3‐85‐1
アクセス : JR花巻駅から車で25分
       東北新幹線新花巻駅から車で35分
開館時間 : 8:30~16:30
料金   : 一般       350円
       高校生及び学生 250円
        小・中学生   150円
公式HP https://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/bunka/takamurakotarokinenkan/1003423.html



碌山美術館


高村光太郎とともに、日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)の作品、資料を保存・公開しています。
光太郎を含む、碌山と関係の深い芸術家たちの作品も展示しており、近代彫刻の流れを見ることができます。
7月22日〜9月10日まで、夏季特別企画として『生誕140周年高村光太郎展』を開催中。
高村光太郎の詩直筆原稿、妻智恵子の紙絵を展示します。(会期中入れ替えあり)

住所 : 長野県安曇市穂高5095‐1
アクセス : JR大糸線穂高駅より徒歩7分
       長野道安曇野I.Cより車で15分
開館時間 : 11月~2月 9:00~16:10
       3月~10月 9:00~17:10
料金   : 一般   900円
       高校生  300円
       小中学生 150円
公式HP  : http://rokuzan.jp/


高村光太郎の人間関係


高村光太郎を語る上で避けては通れない、父光雲、そして最愛の妻智恵子。
ともにロダンに傾倒し、近代彫刻の扉を開いた友人、荻原守衛(碌山)。
彼らとの関係をみていきましょう。



妻智恵子との生涯


柳敬助の紹介で智恵子と出会い結婚した光太郎。
結婚して十数年、智恵子の実家が破産し一家離散してしまうと、もともと病弱であった智恵子は精神的にも病んでしまい、統合失調症を発病してしまいます。症状は重く、光太郎の留守中に自殺を図るほど。光太郎は療養のため温泉巡りをしたり、母や妹の住む地に赴いたりと策を尽くすが改善はみられず。
1938年、粟粒性肺結核により53歳でこの世を去ります。

智恵子の死から3年後、かの有名な『智恵子抄』を出版。智恵子への溢れんばかりの愛が詰まった詩集です。



父光雲との確執


父光雲と同じ彫刻家の道へ進むことは当然のこととして捉えていた光太郎。しかし、典型的な古いタイプの職人気質であった光雲と、ロダンや自由を尊重するフランス近代の思想と接した光太郎が相容いれないのは当然のことでした。留学から帰国後は父への反発、そして日本美術界への不満が顕著になっていきます。

ただ常に険悪な仲というわけではなく、普段は友好的な関係だったようです。
また父についての記述も、随筆や詩の中に数多く残されています。

父光雲なくして光太郎の木彫作品は生まれていなかったのではないでしょうか。




荻原守衛(碌山)という友人


わずか30歳でこの世を去った荻原守衛(碌山)は光太郎の親しい友人であり、また才能を認め評価している存在でした。
留学先で知り合った二人の交友関係は、日本に帰ってからも続きました。

光太郎は『ロダンの言葉』の翻訳を手掛けるなどの文筆活動によって、碌山は彫刻作品からロダンを追求していき、二人がロダンを日本に紹介した最初の彫刻家とされています。

光太郎が旅行をしているさなかに届いた碌山の突然の訃報。すぐさま帰京し、友の死を悼みました。
その後、光太郎は「荻原守衛」と題した詩を作っています。



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まとめ


偉大な父を持つ重圧、パリでの青春、大切な友との出会い、最愛の女性と結婚、そして死別。さまざまな出来事とともに刻まれた高村光太郎の人生。
その中で作り出された作品は、高い技術力を誇り希少価値の高いものがほとんどです。

高村光太郎の作品をお持ちでしたら、ぜひ一度獏にご相談ください。正しい価値を、正しい金額でご提案させていただきます。
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