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石本正の代表作品を紹介|世界観や鑑賞可能な美術館についても解説

石本正は、1920年に島根県で生まれた日本画家です。女性の美しさに魅了され、舞妓や裸婦、花といったテーマで作品を残しています。艶かしさと優美さを併せ持った彼の作品からは彼の女性への優しい眼差しがうかがえます。

石本正は何度か賞を受賞したものの、地位や技術にこだわらないスタイルを貫き、「心」で描くことを大切にしていました。このような姿勢が彼の作品に表れる優美さや艶かしさに繋がっているのではないでしょうか。



石本正の年代別の代表作品を解説

ここでは、石本正の年代別の代表作品を紹介します。代表作品としては、「三人の少女」「横臥舞妓」「裸婦立像」「天王の牡丹」「富美代のれんに立つ豊千代」が挙げられます。どれも彼の世界観を感じることができるでしょう。



三人の少女|1940年代

「三人の少女」は1947年の日本美術展覧会(日展)で初入選した作品で、この作品をきっかけに石本正の名が広まりました。この作品は残っていないものの、大絶賛されています。なお、この作品の構想となったのは、ルネサンス初期に活躍した画家・ボッティチェルリの「春」に描かれた三女神でした。彼はルネサンス絵画が好きで、その当時はボッティチェルリの名を知っている日本人は少なかったものの、彼独自の「好き」を追求して描いた作品となっています。


横臥舞妓|1960年代

「横臥舞妓」は、裸で横たわる舞妓を描いた作品です。日本画に描かれる舞妓は、大体化粧をして美しく着飾っていますが、この作品ではそのような日本画のしきたりを排除しています。白粉と素肌が生々しく描かれており、彼女たちの白く透明な肌が特徴的です。艶かしくリアルで、現実の女性よりも人間らしく感じさせられます。石本正は女性のリアルを人間性や内面性まで厳密に描こうとしていたのではないでしょうか。


裸婦立像|1970年代

「裸婦立像」は、裸婦が布を羽織っている姿を描いた作品です。この作品は、石本正が終戦直後に電車で目の前に座った母親が子供に乳を含ませている瞬間を見たことから発想して制作されたようです。この時彼は乳房の間から蒼白い一本の線を発見し、それに感銘を受けたそうで、この作品にも表れています。その後も彼は女体が発する神秘的な光を描くようになりました。また、この作品では仏像からも着想を得ており、女性の慈悲深い表情が特徴的です。


天王の牡丹|1990年代

「天王の牡丹」は、牡丹を描いた作品です。石本正は毎年春になると京田辺市天王の「無二荘」という牡丹園を訪ねていました。この牡丹園の牡丹は高く育つのが特徴です。彼は花を通して女性を描きたかったようで、まさしくこの作品で描かれている牡丹も、まるで女性のように凛々しく美しく、柔らかで繊細ないでたちとなっています。彼は裸婦や舞妓だけでなく花をテーマにした作品を残し、生涯女性の美しさに対する興味を作品に表現していました。


富美代のれんに立つ豊千代|2010年代

「富美代のれんに立つ豊千代」は2012年に制作された作品で、舞妓が描かれています。1970年にも同じ構図の作品が制作されており「のれん」というタイトルでしたが、同作品で描かれていた女性は当時の彼のモデルであった豊千代という舞妓でした。2012年に制作されたこの作品では、もう一度豊千代を描いた作品を残したいという石本正の思いから描かれています。豊千代の可愛らしい姿や紅の着物が美しい優品です。



石本正の作品の世界観

石本正の作品では、主に裸婦や舞妓、花が描かれています。彼は女性の美しさに魅入り、女性の持つ繊細さや柔らかさ、優しさをたくみに表現しています。なかでも「横臥舞妓」のようにこれまでの日本画の常識を破り、裸の舞妓を描くなど、独自のスタイルを貫いています。彼の作品からは艶かしさが伝わり、同時代のムーブメントであった抽象画とは一線を画しています。

また、石本正はヨーロッパの古典美術にも興味を持ち、何度かヨーロッパに足を運んでいます。キャリアの前半から、当時の日本では無名だったボッティチェルリの作品に感銘を受けた作品を残すなど、ヨーロッパに対する強い憧れがありました。とりわけ彼が魅了されたのはフレスコ画でしたが、フレスコ画の曖昧な色彩が特徴が彼の作品されています。



石本正の作品が鑑賞可能な美術館・博物館

ここでは、石本正の作品が鑑賞できる美術館を紹介します。それは、浜田市立石正美術館、京セラ美術館、中信美術館の3つです。どの美術館でも彼ゆかりの地に所在します。彼が育った場所でどのような作品が制作されたのか、土地の雰囲気を感じながら鑑賞するのも良いでしょう。



浜田市立石正美術館

浜田市立石正美術館は、石本正が館長として開館した美術館です。彼ゆかりの作品が数多く残されています。

住所:〒699-3225 島根県浜田市三隅町古市場589 三隅中央公園内
アクセス:
JR山陰本線「三保三隅駅」下車 タクシーで2,3分
営業時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
料金:一般600円(団体は500円)
公式HP:https://www.sekisho-art-museum.jp/


京セラ美術館

京セラ美術館では、2023年に石本正の大規模展覧会が開催されました。今後もコレクション展として彼の作品が公開される可能性もあります。

住所:〒606-8344 京都市左京区岡崎円勝寺町124
アクセス:
地下鉄東西線東山駅より徒歩約8分
京阪三条駅・地下鉄東西線三条京阪駅より徒歩約16分
営業時間:10:00~18:00
料金:企画展により異なる
公式HP:https://kyotocity-kyocera.museum/


中信美術館

中信美術館においても、2023年に石本正の展覧会が開催されました。というのも、京都は石本正のゆかりの地です。今後も彼に関する展覧会が開催されるかもしれません。

住所:〒602-8048 京都府京都市上京区下立売通油小路東入西大路町136-3
アクセス:
地下鉄丸太町駅下車徒歩10分
営業時間:10:30~17:00(入館は16:30まで)
料金:無料
公式HP:https://www.chushin.co.jp/bijyutu/



石本正の作品の買取価格の相場

石本正の作品の買取価格相場はおよそ35万円前後です。日本画の買取価格としては高額の部類といえるでしょう。日本画は画家ごとに買取価格が大体決まっており、石本正と同ランクの画家としては平松礼二や堂本印象が挙げられます。

日本画の相場はモチーフの種類によっても変わってくるため、同じ作家の作品でも全て同じ価格ではありません。石本正の作品の場合では、著名作品になるほど買取価格が高くなる傾向だと言えます。



石本正の作品を高価買取してもらうためのコツ

石本正作品はアートマーケットで数多く出回っています。そのような中でも高く買い取ってもらえる方法を紹介します。ポイントとなるのは買取専門店の選び方や作品の状態、本物かどうか証明されているか、といった点です。


なるべく綺麗な保存を心がけてこまめな手入れを行う

高く買い取ってもらううえで大切なのは、作品が綺麗な状態であることです。たとえ模写や版画であったとしても、シミや汚れがある場合とそうでない場合とでは、買取価格が大きく変わります。

そのため、作品の入手後は劣悪な環境で保管しないよう、温度と湿度の管理を徹底しましょう。また、物理的なリスクを伴うキズを作らないためにも、保管場所に余計なものを置かないことであったり、作品に触れる際に細心の注意を払うことも大切です。


実績が豊富な美術品買取専門店に依頼する

買取に際して、様々な美術品買取専門店がありますが、専門店の選び方も大切になってきます。長きにわたって営業していたり、買取実績が豊富な専門店であれば信頼をおいても良いでしょう。また、専門店のオフィシャルサイトから店のブログをチェックすることで信頼性がさらに高まります。実際に専門店に足を運び、店員と話しながら信頼をおける店かどうか感覚で判断するのも良いでしょう。

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お持ちの石本正の作品価格が気に相談ください

女性の美しさを描いた作品は古今東西様々あります。しかしながら多くの作品はアカデミックで権力的であったりします。権力や名声、技法といったものに囚われず、心の赴くままに作品を描き続けた石本正の作品は、他の女性をテーマとした作品と比べて独特の美しさがあります。

もしお持ちの石本正作品の価格が気になるのであれば、一度獏へご相談ください。獏は国内外の数多くの作品を査定してきた実績がございますので、ご安心ください。



石本正の略歴

石本正は1920年に島根県で生まれた画家です。画家を志し京都の大学に進学し、戦争に召集されるも終戦後は本格的な創作活動を始めました。そのような中でヨーロッパのフレスコ画に興味を持ち、彼の作品の特徴である舞妓を多く描くようになりました。



1920年:島根県那珂郡岡見村(現在の浜田市三隅町岡見)に生まれる

石本正は、1920年に島根県那珂郡岡見村(現在の浜田市三隅町岡見)に生まれました。故郷の豊かな自然のなかですくすくと育って、20歳になり絵画を志して京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)に進学しました。

しかしながら、石本正が絵画を志して大学に入った頃は太平洋戦争が始まったばかりの頃でした。勿論のことながら彼も戦争に召集され、半年繰り上げて卒業しました。


1945年:終戦により復員し京都にて本格的な創作活動へ

1945年になると終戦となり、石本正は復員して京都にて本格的な創作活動を始めました。そのようななかで彼は、先輩の日本画家・秋野不矩のすすめによって創造美術(のちの創画会)にて作品を発表するようになりました。創造美術とは、戦後の時代に日本画の革新を目的として創立された団体です。

創造美術を舞台として、石本正は様々なテーマの作品を発表しました。技法にも工夫を凝らすようになり、変化に富んだ作品を残しています。


1969年:教え子とともに62日間のヨーロッパ美術研修へ、以降1989年までに計11回行われる

1969年には、石本正は、教え子とともに62日間のヨーロッパ美術研修をしました。ヨーロッパは彼にとって少年の頃から憧れていた地です。この時に彼は中世時代のフレスコ画に感銘を受けたため、その後も度々ヨーロッパを訪れるようになります。

石本正の芸術を象徴する舞妓が多く見られるのはちょうど同時期の作品からで、彼はヨーロッパの芸術を吸収しながらも新しい日本画を追究する姿勢を見せています。


1971年:第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)、第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞するが、以降全ての賞を辞退

石本正は、1971年には第21回芸術選奨文部大臣賞(美術部門)や第3回日本芸術大賞(新潮文芸振興会)を受賞しました。しかし、彼はこれ以降全ての賞を辞退して、地位や名声を求めない姿勢を貫いていました。

このような点からもわかるように、石本正は心で描くことを大切にしていました。彼の画業においては絵を楽しむことが第一で、彼独自の日本画を描き続けました。次第に彼は舞妓を中心とした絵画を描かなくなり、裸婦や花を多く描くようになりました。


2001年:三隅町立石正美術館(現浜田市立美術館)を開館し名誉館長に就任

石本正は、2001年には三隅町立石正美術館(現浜田市立美術館)を開館して名誉館長に就任しました。その背景には、幼い頃の故郷での思い出が自らの画業の原点と感じるようになり、自身の作品を故郷に寄贈したいという思いがありました。その頃より彼は故郷をテーマとした作品を残すようになり、95歳でこの世を去るまで画家として活動しました。


石本正に関する豆知識(トリビア)

ここでは、石本正に関するトリビアを紹介します。石本正は、裸婦や舞妓など女性の美しさに興味を持ち、彼の作品の多くが美しい女性となっています。また、心で描くことを大切にしており、地位や技術にとらわれない独自のスタイルを貫きました。



「心」で描くことを大切にしていた

石本正は、「心」で描くことを大切にしていました。というのも、彼は生涯の画業において技術や地位でもなく絵を楽しむことが第一でした。日本画独特のしきたりを嫌い、様々な画法で作品を残し、純粋な心でもって作品制作を楽しんでいました。

「絵描きには名前なんて要らないです」という言葉を残したように、先入観にとらわれずに様々な絵画を描き続けていました。そのような心が観るものに伝わり、多くの人の心を揺さぶり続けています。


女性美を描いた作品の中を描く

石本正にとって女性とは「美」そのものでした。舞妓や裸婦のように女性美を描いた作品を多く残しています。彼の作品では女性の透き通る肌に究極の美を見出し、透明感あふれる肌がきめ細やかに描かれています。

石本正がどれだけ美しいものが好きなのかと言いますと、「私はトコトンまで美しいものに賭けたい」という言葉を残しているほどです。女性を描いた彼の作品の多くからは、女性の美しさに対する感動がうかがえます。


「夏の藤棚」をモチーフにした857名による石正美術館の天井画を制作した

石本正が館長を務めた石正美術館の天井画は、「夏の藤棚」をモチーフとしています。青く茂った葉の間から金色の木漏れ日が覗くといった構想のもとで、地元住民や教え子を含めた857名による協力を得て完成に至りました。

一人ひとりの絵筆が加わることによって完成した天井画ですが、構想は石本正が行ったものの、描くのは各自の自由のもと、彼が手を加えることはしませんでした。そこには彼の絵画に対する「自由な表現」を尊重する姿勢が見られます。


石本正の作品買取なら美術品買取ご相談ください

石本正は、1920年に生まれた日本画家です。女性の美しさに魅了され、舞妓や裸婦、花をテーマに作品を描き続けました。優美で繊細、艶やかな作品が特徴で、彼の作品からは女性への優しい眼差しを感じさせられます。

当店では現在石本正作品の買取を強化しています。アート作品は価値の判断が難しいため、スタッフが念入りに査定いたします。また、絵画作品だけでなく、茶道具や陶芸作品など幅広く買取いたします。買取の流れや買取実績、ご不明点などございましたらお気軽にお問い合わせください。 v>