中里家は江戸時代に唐津藩の御用窯として将軍家や高家に向けた作品を制作していました。しかし、廃藩置県に伴い藩の庇護を失うと存続の危機に直面しました。そのような中12代が古唐津の再興に携わり人間国宝となりました。現在では唐津焼の伝統を守りつつ、モダンと融合した作品も手がけるなど、新たなアプローチを追求しています。
中里太郎右衛門の作品の買取価格相場
ここでは中里太郎右衛門の作品の買取価格相場を、代表作品「徳利」「絵唐津 湯呑」「唐津焼」から紹介します。中里太郎右衛門作品の特徴がはっきりと分かる作品で、市場でどのくらいの価格で出回っているのか分かるはずです。徳利
中里太郎右衛門の徳利の買取価格は10,000円程度から数万円程度まで幅が広くなっています。控えめに描かれている絵柄が特徴的で、日常使いとしても特別な日に用いることもできる優品といえるでしょう。
絵唐津 湯呑
中里太郎右衛門の湯呑の買取価格は10,000円程度から数万円程度まで幅が広くなっています。徳利と同様に控えめに描かれている絵柄が特徴です。また、唐津焼独自の荒々しい手触りもあります。そして、窯ものには裏面に3つの点があり、中里太郎右衛門の標章です。
なお、現在の13代中里太郎右衛門の作品はマーケットに多く出回っており、手頃な価格で購入できるものの、人間国宝の12代と比べると評価額が落ち込む傾向にあります。
唐津焼
中里太郎右衛門の唐津焼の買取価格は数千円程度から数万円程度まで幅が広くなっています。他の作品と同様に唐津焼独自の荒々しい手触りを感じさせるほか、控えめで上品な風合いが特徴です。そして中里太郎右衛門の標章である「三ツ星」も確認できます。中里太郎右衛門は、もともと日用品として用いられていた唐津焼を芸術作品として追求しています。中里太郎右衛門の唐津焼からは伝統と芸術性の両方を確かめられるでしょう。
中里太郎右衛門の作品を高く買い取ってもらう方法
ここでは、中里太郎右衛門の作品を高価格で買い取ってもらう方法についてお伝えします。ポイントとしては新品同様のきれいな状態を保てるよう保存環境に気をつけることや、実績のある専門店に買取を依頼することです。入手直後である場合はなるべくきれいに保存状態を保ったまま買取依頼できるように環境保全に気を遣う
作品を高価格で買い取ってもらうためには、作品がきれいな状態であることが大切です。そのためには保存環境に気をつけなくてはならず、永楽善五郎の作品では、高い場所を避けること、湿度管理を徹底すること、そして直射日光を避けることがマストです。また、作品ごとに丁寧に梱包したり、こまめに作品の状態を確認することも保存するうえで大切なことといえるでしょう。きれいな状態の作品であるほど高く買い取ってもらいやすくなります。
実績の美術品買取の専門店に買取を依頼する
作品を高価格で買い取ってもらうためには、実績の高い専門店に買取を依頼することも大切です。さまざまな専門店があるなかで信頼性の高い専門店を見つけるのは難しいですが、買取の実績やGoogleの口コミを参考にすると良いでしょう。また、気になる専門店には自ら足を運んで、スタッフと会話をしたり、店の雰囲気やお客様への対応を見ながら「ここなら信頼できるな」という直感で選ぶのも大切です。獏では多くの作品の査定実績があります。買取に迷われている方はぜひ一度当店もご検討ください。
中里太郎右衛門の有名作品を解説
ここでは中里太郎右衛門の有名作品である「唐津湯呑」「叩き翡翠唐津掻落し鮭壺」「唐津木ノ葉文鉢」を解説します。中里太郎右衛門は唐津焼の伝統と芸術性の両方を兼ね合わせた作品を多く制作しています。唐津湯呑
「唐津湯呑」は、つるんとした形が特徴の湯呑となっています。唐津焼の特徴である素朴な風合いを感じられるでしょう。唐津焼の伝統を受け継いだ湯呑であることが一目瞭然でわかる作品となっています。
叩き翡翠唐津掻落し鮭壺
「叩き翡翠唐津掻落し鮭壺」は、鮭が描かれた壺です。鮭が描かれている部分からは唐津焼独特の「叩き技法」の痕跡がうかがえます。「叩き技法」とは、縄文時代から土器を作る際に用いられており、細く紐状にした土を積み重ねていき形を成形してその上から縄状の物を転がす技術をいいます。荒々しさを感じさせる肌触りの壺ですが、描かれている鮭はリアルな描写となっています。自然の美しさというよりも厳かさをひしと感じさせる作品ではないでしょうか。
唐津木ノ葉文鉢
「唐津木ノ葉文鉢」は、金色の木の葉が描かれた鉢です。黒色の鉢はシックな色合いで、その真ん中に描かれている木の葉が写実的です。葉脈まではっきりと分かるほどに鮮明な木の葉となっています。
中里太郎右衛門の作品は中里太郎右衛門陶房にて鑑賞可能
右衛門の作品は「中里太郎右衛門陶房・御茶盌窯記念館」で鑑賞できます。また、御茶盌窯記念館は、中里家が蒐集した桃山時代の古唐津や唐津藩の御用窯で焼かれた献上唐津、歴代の太郎右衛門の代表作品が展示されています。これらの陶房や記念館では、400年もの長きにわたって中里家が歩んだ歴史や、時代ごとに移り変わる作品を知れます。また、唐津焼について興味がある方にとっても必見のスポットといえるでしょう。
中里太郎右衛門の人物像と作品の世界観
中里太郎右衛門は安土桃山時代より14代にもわたって続く伝統ある佐賀県の陶芸一家です。唐津焼を踏襲しつつ、現代風の作品を数多く制作しています。ここでは中里太郎右衛門の人物像や作品の世界観について紹介します。中里太郎右衛門は400年以上もの歴史がある家系で伝統的な唐津焼を受け継いでいる
中里太郎右衛門は安土桃山時代より続く伝統的な窯元で、代々唐津焼を制作しています。江戸時代には唐津藩の御用窯「唐人町御茶盌窯」が開かれ、そこでは中里家が将軍家や高家への献上品を作っていました。
しかし、明治時代になると唐津藩が廃藩となったため、幕府の庇護を受けられなくなった中里家は衰退の危機に直面します。そこで活躍したのが12代中里太郎右衛門で、彼は古唐津の技術を復活させて人間国宝に認定されました。その後も13代と14代によって唐津焼の伝統を守りつつ、現代風にアレンジした作品を制作するなど新たなチャレンジにも取り組んでいます。
作品は伝統的な「叩き技法」を取り入れ独特の世界観を表現している
中里太郎右衛門の作品は伝統的な「叩き技法」を取り入れています。「叩き技法」とは、縄文時代から土器を作る際に用いられており、細く紐状にした土を積み重ねていき形を成形してその上から縄状の物を転がす技術をいいます。叩き技法を用いることによりリズム良く波打つ文様が特徴的な作品となっています。また、この技術は元々日本から姿を消していましたが、朝鮮の陶工によってもたらされたものです。また、主に茶道具を作るときに重宝された制作方法だったようです。
歴代で中里太郎右衛門を名乗った人物を紹介
ここでは、歴代で中里太郎右衛門と名乗った人物を紹介します。中里太郎右衛門は安土桃山時代より続く伝統的な窯元で、江戸時代は将軍家や高家に向けて献上品を制作していました。しかし、明治時代になると廃藩置県のために藩からの庇護がなくなり、中里家は存亡の危機に直面してしまいました。そのような中で活躍したのが12代中里太郎右衛門で、彼は古唐津の再興に携わり、人間国宝として認定されました。彼の死後も13代、14代が後継者となって唐津焼の伝統を守りつつも、現代的な要素と融合させて作品を制作するなど、新たな唐津焼のスタイルを追求しています。
第一代目~第十一代目
中里太郎右衛門は安土桃山時代より続く伝統的な窯元で、代々唐津焼を制作してきました。中里家初代は又七といい、伊万里市大川町に田代窯を開窯しました。その後1734年には唐人町へ窯を移し、幕末まで代々将軍家・高家への献上品を制作していました。
第十二代目|人間国宝
12代中里太郎右衛門は、古唐津焼の再興に携わり人間国宝に認定された人物です。1895年に生まれたのち、制作を続ける傍らで1955年には人間国宝となりました。また、1966年には唐津市より市政功労者として選ばれたほか、紫綬褒章を受賞しています。
このように12代中里太郎右衛門は、生涯にわたって作家としてのみならず唐津焼の存続のためにも情熱を傾けました。彼の偉業はのちの13代や14代にも受け継がれており、彼の死後、中里太郎右衛門は現在では海外を見据えた展開も試みるほどです。
第十三代目
13代中里太郎右衛門は1923年に生まれたのち戦時中は宮崎で航空教育隊に入営し、所属している部隊が台湾へと移動した時に終戦を迎えました。終戦後は捕虜として過ごした後、陶芸家の加藤土師萌から作陶の基本を学び、父・12代中里太郎右衛門が行っていた古唐津の再興を引き継ぎ古唐津焼を研究しました。
海外にも裾野を広げ、1965年には現代工芸美術協会ベルリン芸術視察団の一員としてヨーロッパや中東などを40日ほど歴訪しました。1992年には佐賀県重要文化財に認定され、2004年には博士号を取得、2007年には日本芸術院会員となりました。
第十四代目
14代中里太郎右衛門は、中国の技法を活かした「掻落し」などの作品を制作しました。土と釉薬の組み合わせで新しい唐津焼の多彩な表現を追求しています。前衛的なオブジェ風の作品を制作していた時期もあり、唐津焼とモダンの融合を研究しています。非常に好奇心豊かな14代中里太郎右衛門は、焼物だけでなく建築や海外の芸術など様々なトピックに興味があるとインタビューにて語っています。そのような姿勢が作品に反映され、唐津焼をよりバラエティ豊かにしています。
中里太郎右衛門に関するトリビア(豆知識)
ここでは、中里太郎右衛門に関するトリビアを紹介します。中里太郎右衛門が手がける唐津焼は戦国時代に誕生した焼物で、素朴な風合いを特徴としています。豪華な文化が栄えた当時、唐津焼は非常に優れた焼物として重宝されていました。中里太郎右衛門が参考にした唐津焼の歴史は戦国時代にまで遡る
中里太郎右衛門が参考にしていた唐津焼は、戦国時代に誕生した陶器です。唐津焼は安土桃山時代頃の近世より肥前国(現在の佐賀県や長崎県)にて作られ始めました。同時期に豊臣秀吉による朝鮮出兵があり、朝鮮からの陶工たちが開窯したという通説が以前からありましたが、近年の調査では朝鮮出兵以前から唐津焼が制作されていたことが分かっています。
唐津焼が制作され始めた時期では食器や甕が中心でしたが、時を経るにつれて茶道具や皿などバラエティ豊かな用途にも制作されるようになりました。
唐津焼は使うほどに美しくなると言われており、荒い質感が魅力である
唐津焼はざっくりとした粗い土を使った素朴な風合いが特徴です。強い特徴を持たないことよりお茶や料理、花などを引き立てるうつわとしても人気の高い焼物です。また、使うほどに美しくなる焼物とも言われています。
唐津焼が誕生したのは安土桃山時代頃で、当時は「1楽、2萩、3唐津」と呼ばれるほど優れた焼物とされていました。この時期は豪奢な文化が栄えた時期だったため、素朴な特徴を持つ唐津焼は作品の味を際立たせる役割を果たしていたのでしょう。
作品の種類によって大きく値段が変わる
中里太郎右衛門が制作する唐津焼は、作品の種類によって値段が大きく変わるのも特徴です。というのも、唐津焼は様々な用途に向けて制作されているため、作品のバラエティが非常に豊かです。そのため、手頃に入手しやすい唐津焼がある反面、うつわの用途や希少性によっては高い値段で取引されているものもあります。また、中里太郎右衛門のような有名どころとなると、保存環境が良い昔の作品であったり、最近の作品でも希少性が高い作品であれば高額で取引されています。中里太郎右衛門の作品の買取価格に関するご相談は獏へ
中里太郎右衛門は安土桃山時代より安土桃山時代より続く唐津焼の名跡です。江戸時代は幕府に向けて将軍家や高家の献上品を制作していました。明治時代になり衰退の危機を彷徨うものの、12代によって再興され、現在では14代が唐津焼の伝統を守りつつも、モダンとの融合を追求しています。当店では現在中里太郎右衛門作品の買取を強化しています。アート作品は価値の判断が難しいため、スタッフが念入りに査定いたします。また、陶芸作品だけでなく、茶道具や絵画など幅広く買取いたします。買取の流れや買取実績、ご不明点などございましたらお気軽にお問い合わせください。