村上華岳といえば神秘的な魅力をたたえた独特の仏画が広く知られています。今回は女優の樹木希林もその作品に魅了されたという村上華岳について、特に仏画にスポットを当ててその魅力を紹介します。
村上華岳の仏画の代表作品を解説
今なお多くの人から愛される村上華岳の仏画について、特に高く評価されている代表作品を2点紹介します。菩薩図
『菩薩図』は、村上華岳らしさがよくあらわれた繊細な線描と淡い色彩が上品な作品です。子どものようにも女性のようにも見える神秘的な菩薩が、かすかなほほえみを浮かべているのが印象的です。村上華岳の作品の中では比較的小さなサイズといえるでしょう。制作年 | 不詳 |
寸法 | 58.2×50.6cm |
所在地 | 広島県立美術館 |
*文化遺産オンライン / 村上華岳 / 菩薩図
観世音菩薩 施無畏印像
『観世音菩薩 施無畏印像(かんぜおんぼさつ せむいいんぞう)』は、村上華岳が喘息と闘いながら創作活動に励んでいた昭和期の作品です。施無畏印とは恐れを払いのけて人々に安寧を与える手指の形を指します。村上華岳は仏画を描くことで自分自身も救いを求めていたのかもしれません。優しげな表情の肉感的な観世音菩薩が描かれています。制作年 | 1928(昭和3)年 |
寸法 | 126.9×42cm |
所在地 | 兵庫県立美術館 |
*兵庫県立美術館 所蔵作品検索 / 観世音菩薩施無畏印像
村上華岳の仏画作品の世界観
村上華岳は国画創作協会の結成に携わり、新時代の日本画の開拓に寄与したことで知られます。風景画もありますが特に村上華岳の描く神秘的な仏画には人気があり、多くの人を魅了し続けています。
「裸婦図」の系譜を引き相反する要素を調和させる
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村上華岳は初の仏画『阿弥陀の図』を第10回文展に出品した4年後、1920(大正9)年の国画創作協会第3回展に『裸婦図』を出品しました。『裸婦図』は、エキゾチックな薄衣をまとい、菩薩のようにも見える女性が描かれた作品です。村上華岳自身『裸婦図』について、この女性の眼に「観自在菩薩の清浄さ」をあらわそうとしたとのちに語っています。
官能性と宗教性、または世俗性と精神性といった相反する要素が一つの作品の中に見られるのが『裸婦図』の特徴といえますが、村上華岳の仏画はこの特徴を引き継ぎました。ふくよかで官能的でありながら、あくまでも気高く上品に見える村上華岳の仏画は、近代の宗教絵画の中でもとりわけ高く評価されています。
*山種美術館 / 作品紹介
昭和以降は小サイズでモノクロな傾向が強い
村上華岳は1920年代の初めごろから喘息に酷く苦しめられました。そして1927(昭和2)年には神戸へ住まいを移し、以降は喘息と闘いながら孤独の中で創作活動をつづけます。村上華岳の画業の後半は、闘病と並行して行われたためかサイズの小さい作品が多くなっています。また、闘病中の心情が作品にあらわれたのか、特に昭和以降の作品はモノクロームの落ち着いた色彩で描かれたものが多いのが特徴です。
村上華岳の略歴
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』それでは、独特な魅力を持つ神秘的な仏画がどのようにして生まれたのかを探るべく、村上華岳の波乱万丈な生涯を追ってみましょう。
1888(明治21)年7月、村上華岳は大阪市の北区松ヶ枝町に生まれました。祖母の池上雪枝は日本最初の孤児院を作った人物で、父親の誠三は医者、または学者であったといわれています。村上華岳は十代半ばで神戸の村上家の養子となりました。
1903~1913年:京都市立美術工芸学校・京都市立絵画専門学校で学ぶ
村上華岳は1903(明治36)年に京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)に入学しました。その後は1909(明治42)年に新設された京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)へと進学し、竹内栖鳳に師事して日本画を学びます。同期には榊原紫峰(さかきばらしほう)や土田麦僊(つちだばくせん)らがいました。1908(明治41)年の第2回文展に出品した『驢馬に夏草』が3等を受賞、1911(明治44)年の第5回文展に出品した『二月の頃』(卒業制作の『早春』を改題)が褒状を受けるなど、村上華岳は若いころから優れた才能を発揮します。
1916年:初の仏画『阿弥陀之図』が第10回文展特選を受賞
村上華岳は1916(大正5)年の第10回文展に、初の仏画『阿弥陀の図』を出品しました。この頃の村上華岳は歌舞伎や文楽などの日本の伝統文化や仏教美術などに大変興味を引かれていました。『阿弥陀の図』は文展にて特選に選ばれ多くの人から注目を集めます。
1918年:土田麦僊・小野竹喬らとともに国画創作協会を結成
1918(大正7)年、村上華岳は京都市立絵画専門学校の同期である若手日本画家、土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬(おのちっきょう)、野長瀬晩花(のながせばんか)とともに5人で「国画創作協会」を結成しました。国画創作協会とは、文展の体制や審査基準のあいまいさ等に反発して結成された団体です。個性の尊重と創作の自由を掲げた同協会は1939(大正14)年に洋画部を設け、最終的には版画部、彫刻部、工芸部を備えた総合的な団体へと発展していきます。
1921~1923年:持病の喘息が悪化し渡欧を見合わせ、兵庫県芦屋市へ転居
1921(大正10)年、国画創作協会の仲間である土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花は洋画家の黒田重太郎の案内で渡欧し、約1年半にわたって西洋絵画の研究を行いました。しかしこの頃から喘息が酷くなり始めた村上華岳は渡欧を断念します。
1923(大正12)年には養生のため京都から武庫郡精道村(現在の兵庫県芦屋市)へ移り住みました。村上華岳は1927(昭和2)年の転居までこの地で創作活動を行います。
1926年:国画創作協会から独立し制作に勤しむ
村上華岳は1926(大正15)年に国画創作協会を脱退すると、以降どこの団体にも属さず孤高の画家として活動を続けます。1927(昭和2)年になると養父の死にともない神戸市の花隈(はなくま)へと住まいを移しました。そして1939(昭和14)年、喘息のために52歳の若さでこの世を去りました。*東京文化財研究所 / 村上華岳
*大阪市北区 / 北区ゆかりの画家たち / 日本画家・村上華岳(むらかみかがく)
村上華岳の仏画は京都国立近代美術館にて鑑賞可能
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』京都国立近代美術館では、村上華岳が神戸に移り住んだ3年後の1930(昭和5)年に描いた『観音之図 (聖蓮華)』を鑑賞できます。132.0×31.3cmのやや小ぶりのサイズで描かれた、昭和期の名品です。
京都国立近代美術館は工芸分野に重点を置きつつ近現代の美術品を幅広く収集しており、村上華岳が1913(大正2)年が制作した『夜桜之図』や1930(昭和5)年に制作した『墨牡丹之図』なども所蔵しています。興味のある方はぜひ足を運んでみてください。
また、村上華岳の仏画はほかにも広島県立美術館(『菩薩図』所蔵)、東京国立近代博物館(『楊柳観音』所蔵)、兵庫県立美術館(『観世音菩薩 施無畏印像』所蔵)、姫路市立美術館(『捻華菩薩図』所蔵)などで鑑賞可能です。
村上華岳の仏画の買取価格相場
村上華岳の仏画の買取相場は一般的には数万円程度となることが多いでしょう。ただし、ごく一部の人気の作品で状態の良いものであれば数十万円、または数百万円となる可能性もあります。描かれた作品の様子や保存状態などから多角的に判断いたしますので、お気軽にご相談ください。
村上華岳に関する豆知識(トリビア)
最後に村上華岳にまつわる意外なトリビアを二つ紹介いたします。幼少期は一家の離散など複雑な家庭環境で育つ
村上華岳の父親は医者、または学者であったといわれますが、実家の武田家は経済状態が決して豊かとはいえませんでした。村上華岳は幼いころに実の両親のもとから神戸に住んでいた親戚、村上家へと預けられます。村上華岳は自身が13歳の時に実父を亡くし、さらに実母も行方不明となってしまったため、一旦は武田家を継ぎました。その後、武田家の廃家が決まり村上華岳は十代半ばで村上家の養子となります。こうして村上華岳は1904(明治37)年より村上姓を名乗ることとなりました。
仏画以外にも重要文化財に指定される名品を制作
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』村上華岳といえば神秘的な仏画が人気を集めていますが、実は仏画以外にも数々の傑作を残しています。代表的なものとしては東京国立近代美術館に所蔵されている『日高河清姫図』や山種美術館に所蔵されている『裸婦図』などがあり、これらは重要文化財にも指定されています。また、『裸婦図』は50円切手になったことでも話題になりました。
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