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細川護熙ってどんな人?元内閣総理大臣でありながら陶芸家・茶人の細川護熙を徹底解説

第79代内閣総理大臣を務めたことで知られる細川護熙(ほそかわ もりひろ)が、現在アーティストとして活動していることをご存知ですか?

細川護熙は、政界引退後に現代陶芸家の辻村史朗に弟子入りしました。今では一人前の陶芸家として認められて、茶室のある自宅「不東庵」において作品制作を行っています。また、2021(令和3)年に京都の大本山建仁寺に瀟湘八景図襖絵24面を奉納したのも記憶に新しいところです。

今回は、芸術的才能を生かしてさまざまな分野で幅広い活動を行っている細川護熙について解説します。

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細川護熙の略歴


細川護熙
政治家、陶芸家、茶人とさまざまな顔を持つ細川護熙のもう一つの顔が、旧熊本藩主である細川家の第18代当主というものです。細川護熙は第17代当主である細川護貞の長男として、1938(昭和13)年の1月14日、東京都に生まれました。ちなみに、母方の祖父は昭和初期に内閣総理大臣をつとめた近衛文麿です。細川護熙は、学習院の高等科を卒業後、上智大学の法学部へと進みました。



朝日新聞社に入社



細川護熙は、上智大学を卒業後に朝日新聞社に入社しました。朝日新聞社では鹿児島支局の鹿児島県警察記者室に配属されたのち、本社に移動して社会部の記者として活動しています。社会部の記者時代には、1968(昭和43)年に発生した金嬉老(きんきろう)事件(在日韓国人2世による立てこもり事件)などを取材しました。



新聞社を退社し政界へ



政界進出を考えていた細川護熙は、1968(昭和43)年に朝日新聞社を退社しました。そして家族の反対を押し切り、翌年の衆議院議員総選挙に旧熊本1区から出馬します。このときは無所属で出馬しましたが、結果は落選でした。

1971(昭和46)年の参議院議員通常選挙では、自由民主党として全国区から出馬して当選を果たします。続いて2期目には熊本県選挙区から出馬し、当選しました。



熊本県知事に当選(当時最年少)



細川護熙は、参議院議員の2期目の任期中に熊本県知事選挙に出馬することを決め、1983(昭和58)年に当選します。当時、全国最年少の知事の誕生であったため大きな話題になりました。細川護熙は熊本県知事を2期8年つとめ、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進しました。

熊本県知事在任中に国(中央省庁)に権限が集中していることを痛感した細川護熙は、地方分権を目指して国の中枢に入り改革を進めたいと考えるようになります。



細川内閣


細川護熙演説
1991(平成3)年、細川護熙は熊本県知事を2期8年で辞任し、本拠地を東京に移します。翌年、細川護熙は政権交代可能な二大政党制の実現に向けて「自由社会連合」を結党しました。その後、公募により「日本新党」と改められ、10年以内に政権を獲得することを目指して活動を開始します。

そして、ついに38年ぶりに自由民主党からの政権交代を成し遂げ、1993(平成5)年に細川連立政権が誕生し、細川護熙は第79代内閣総理大臣に着任します。このときに行われた世論調査では、内閣支持率が70%を超えて大いに注目されました。また、ジャーナリスト出身で知事経験のある、珍しい経歴を持つ首相としても話題になりました。



政界引退後陶芸家・茶人として活躍


建仁寺
細川護熙が2021(令和3)年に瀟湘八景図襖絵24面を奉納した建仁寺。
建仁寺正伝永源院は肥後細川家の菩提寺でもある。
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

細川護熙は1992(平成4)年に内閣総理大臣を辞任しました。さらに1994(平成6)年には日本新党を解党します。1998(平成10)年、細川護熙は還暦(60歳)を迎えたことを区切りとして衆議院議員を辞職し、政界を引退しました。

1999(平成11)年、細川護熙は陶器の制作を始め、芸術の道へ踏み出します。2001(平成13)年には日本橋壷中居、京都古美術柳にて初個展を開催しました。また、2009(平成21)年には油絵を、2012(平成24)年には襖絵の制作を始めます。

細川護熙は、多くの襖絵を京都や奈良の寺院に奉納してきました。2012年には京都の地蔵院に瀟湘八景図襖絵8面を奉納、2014(平成26)年には京都の建仁寺正伝永源院に四季山水図襖絵24面を奉納、2018(平成30)年には奈良の東大寺に白文華厳経唯心偈6曲2双屏風を奉納、2019(平成31)年には奈良の薬師寺慈恩殿に東と西の融合障壁画66面を奉納、2021(令和3)年には京都の大本山建仁寺に瀟湘八景図襖絵24面を奉納しました。

細川護熙は、神奈川県の足柄下郡湯河原にある自宅「不東庵」で作品制作を続けています。自宅には建築家の藤森照信が設計した茶室があり、茶人としても知られる細川護熙は、茶杓などの茶道具作りも幅広く手掛けています。



細川護熙が総理大臣をしていた期間はいつ?期間は何年?


細川護熙が総理大臣をしていたのは、平成5年8月9日から平成6年4月28日までの263日間です。細川護熙が55歳のときでした。

細川護熙は、第78代内閣総理大臣であった宮澤喜一の後に、第79代内閣総理大臣となりました。ちなみに、細川護熙の次の第80代内閣総理大臣は羽田孜でした。



細川護熙は肥後熊本藩細川家18代目当主



熊本城
細川護熙は、かつて肥後熊本藩主であった肥後細川家の第18代当主です。

細川氏とは、古くは清和源氏の流れをくむ足利氏の支流にあたり、鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に移住した際にその地名を取って名字としたといわれています。多くの支流がありますが、細川護熙が当主をつとめるのは肥後細川家にあたります。

肥後細川家の人物で特に名が知られているのは、戦国時代に明智光秀の娘、玉(のちの細川ガラシャ)を正妻に迎えた細川忠興ではないでしょうか。細川忠興は、肥後細川家の第2代当主でした。



細川護熙が陶芸家になったきっかけは?


細川護熙が陶芸の道を目指すきっかけとなったのは、牧山圭男(まきやまよしお)の作品でした。牧山圭男は、昭和の実業家である白洲次郎の長女と結婚し、旧白洲邸「武相荘」というミュージアムの館長をしている人物です。牧山圭男は趣味で陶芸をたしなんでおり、個展を開くほどの腕前を持っていました。

銀座でひらかれた牧山圭男の個展で陶芸のおもしろさに目覚めた細川護熙は、現代陶芸家の辻村史朗に弟子入りすることを決めます。しかし、辻村史朗は弟子を取らないことで知られており、ことはそう簡単には運びませんでした。細川護熙が何度も頼み込み、やっとのことで弟子になることができたといいます。

細川護熙は、奈良に住む辻本史朗を訪ねて寝泊まりしながら陶芸を学び、約1年半をかけて一人前の陶芸家として認められました。土の産地にはあまりこだわらない辻村史郎とは違い、織部、信楽、唐津などの産地の土で作られているのが細川護熙の作品の特徴です。

ちなみに、細川護熙の息子である細川護光(もりみつ)も陶芸家で、神奈川県の湯河原にある「不東庵」で一時期ともに制作していたこともあります。



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