竹久夢二の日本画の買取価格とポイント
1884~1934年 岡山県生まれ。
代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。1900年に父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居。1901年、17歳の時に家出して単身上京。翌年、早稲田実業学校専攻科入学する。1905年に友人であった荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載される。これは最初に印刷に附された夢二の絵であった。この後、『光』、日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載し、社会主義者らとの親交も深めた。同年6月、『中学世界』に『筒井筒』が第一賞入選、このとき、初めて夢二を名乗る。早稲田実業学校専攻科を中退する。
1907年に岸たまきと結婚する。読売新聞社に入社し時事スケッチを担当する。1910年には大逆事件関与の容疑で2日間拘留される。1923年に恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足するも、関東大震災(大正関東地震)で潰滅。友人で画家の有島生馬とともに震災後の東京を歩き、スケッチ21枚を『都新聞』に『東京災難画信』として寄稿連載。
1924年にアトリエ兼自宅「少年山荘」(山帰来荘)を東京都世田谷区松原に建設。その後、米国、ドイツ、チェコ、オーストリア、フランス、スイスの諸都市を巡り、日本の雑誌に寄稿し、多くのスケッチ画を残す。帰国後、結核を患って病床につく。1934年に満49歳11ヶ月で逝去する。
2023年12月現在夢二生家記念館・少年山荘で「夢二生家 ふるさとの冬」、夢二郷土美術館 本館で「松田基コレクションⅩⅢ:夢二名品展/特別公開 美しき女性たち」が開催中。
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竹久夢二の最新買取情報
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買取ポイント
竹久夢二の作風
竹久夢二の作品といえば、浮世絵的な色づかいや、日本画の技法で描かれた美人画が有名です。華奢ではかなげな雰囲気に憂いを帯びた表情の女性は竹久夢二独特の世界観を持っており、「大正の浮世絵」「夢二式美人画」と皆から呼ばれ、親しまれてきました。
しかし、絵画としての作品だけではなく雑誌の表紙や挿絵なども手掛けてきた夢二の作品は、当時の画壇には受け入れられることはなく、彼が画家として認められたのは、彼が亡くなった後と言われています。
当時の夢二は今でいうグラフィックデザイナー、あるいはアートデザイナーといった立場でした。夢二が描く挿絵やポスターに登場する女性は、当時「モダン」とされていた色柄の着物をまとっていたり、洋装に身を包んでいたりと、女性の社会進出や西洋化の進んでいた当時の世の中を表現した作品となっています。
また、夢二の描く動植物のモチーフは、当時日本の美術界に影響を及ぼしていた「アール・ヌーヴォー」の影響が強く感じられ、夢二が時代を先駆ける画家であったことを証明しています。
竹久夢二の現在の評価と価値
直筆作品は珍しいですが、下絵やスケッチのように簡単に描かれた作品が多い印象です。そのため、充分な描き込みがある作品は珍しく、このような作品は100万円以上の評価になる事が殆どです。一方、版画作品に関しては流通量が多く、復刻も多数制作されているため厳しい評価になるでしょう。
また、線が細く潤う瞳の「夢二式美人」と呼ばれる独特の憂いを帯びた美人画も買い取り額が高価になりやすい傾向にあります。そのほか、着物のデザインにも当時「モダン」とされていた色柄が使われている作品は、そのような時代を表現した作品として高く評価されています。