高村光雲

高村光雲の評価と買取金額

1852年~1934年 物故作家。
江戸下谷(現在の東京都台東区)に生まれる。1863年、12歳のときに仏師:高村東雲へ弟子入りして木彫の技法を学ぶ。1868年、廃仏毀釈の影響と象牙彫刻の流行で、木彫彫刻の依頼はなく生活に困窮。しかし、1877年に第1回内国勧業博覧会へ「白衣観音」を出品し、竜紋賞を受賞して広く知られる。1886年、東京彫工会を設立。1887年~1888年にかけて、皇居造営にともなう一部の装飾を担当。1889年、当初パリ万博に出品予定だった「矮鶏置物」を美術協会の展覧会へ出品することになり、それを見た明治天皇がお買い上げになる。そのあと東京美術学校(現在の東京藝術大学)へ勤務し、翌年に彫刻科の初代教授と帝室技芸員に就任。

1893年、シカゴ万博に「老猿」を出品して妙技二等賞を受賞し、1898年、上野公園にある「西郷隆盛像」を制作する。1900年、パリ万博へ「山霊訶護」を出品。1919年に帝国美術院会員となる。1926年、東京美術学校を退職して名誉教授へ選任。「聖徳太子坐像」は東京藝術大学に所蔵されている。東京美術学校に制作を依頼された「楠公像」は高村光雲が頭部を担当し、4人の彫刻家とパーツを分けて共作。宮内省に献納され、現在は皇居前広場へ建てられている。

高村光雲
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買取ポイント

高村光雲の作風

仏像や動物モチーフの作品が多く、仕事がなかった時期も自分の技術と真摯に向き合っていました。西洋美術と写実主義を融合させた作品は、江戸時代までの木彫技術を後世に伝えたとも言われています。ブロンズとして残されている作品は「聖観音像」や「大黒天像」、「老子像」や「大黒天像」など柔和で上品な彫刻が多く見られるでしょう。その反対に阿吽と吽形を制作した「仁王尊像」は、迫力ある躍動感と荘厳な雰囲気を漂わせています。

「観音菩薩立像」や「普賢菩薩」は、宝冠や天衣など細部に至るまで表現されており、眺めているだけで穏やかな気持ちになれるかもしれません。もちろん美術品なので何らかのご利益を得られるわけではありませんが、飾っておくだけで心が安らぐほど精巧にできた作品です。現在、原型を制作した「達磨太子像」は銀製像、「陽光」は純金製の像としてそれぞれに姿を変えています。象牙彫刻が流行して木彫りの彫刻師が次々と職を辞したときも、彼は愚直に自分のスタイルを変えませんでした。「木で彫れるものなら何でも彫る」という信念の元、西洋画の写実表現を取り入れた技法は、高村光雲にしか演出できない優美さと伝統をつないでいます。

高村光雲の現在の評価と価値

ブロンズの買取金額は数万円~10万円以上、
木彫の買取金額は数十万円から100万円以上となります。

高村光雲は高村光太郎の父親として知られていますが、木彫の「老猿」が重要文化財に指定されるほど彫刻技術は高い評価を得ていました。現役当時は依頼を受けて制作するスタイルだったため、彫刻家としての人気と職人肌の完成度が注目されていたそうです。貧しい生活を支えながらの活動には様々な困難もありましたが、持って生まれた精神性の高さと彫刻家としてのセンスで乗り越えており、このような彼の背景も手伝って社会的地位を確立したのではないでしょうか。浅草寺にある八角形錆御影石造りの手水鉢に施された「沙竭羅龍王像」や「岩上観音」、「慈母観音菩薩」や「魚籃観音像」など穏やかな表情の仏像と龍王像は、高村光雲にしか表現できない世界観でしょう。

東京美術学校の講師に招かれた際は、「自分は職人だから学校で教えることはできない」と1度断っており、岡倉天心に「職場を学校に移すだけだ」と説得され依頼を受けました。それほど職人気質を持っているからこそ、こだわり抜いた彫刻に仕上がるのです。モチーフの歴史までも的確に捉え丁寧に刻まれた彫刻は、息子である高村光太郎へも影響を与えたのかもしれません。

彼の作品は観光資源となった寺院や仏閣巡りに後押しされ、若者からシルバー世代まで幅広く人気を集めています。

作品のご売却をご検討の際は、ぜひ美術品買取専門店「獏」へお声がけください。

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