渋沢栄一の買取価格とポイント
1840年~1931年 物故作家。
武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に生まれる。実家の農業や養蚕を手伝いながら、従兄弟から「論語」や「日本外史」を学習。この頃からすでに書を手習い、当初は教育熱心だった父を手本とする。さらに書をたしなんでいた叔父にも習い、剣術修行のかたわら尊王攘夷思想に目覚め京都へ。そのあと倒幕計画の中止にともない一橋慶喜へ仕える。1867年、主君の名代としてフランスで開催される万国博覧会へ出席。明治に変わり大蔵省への勤務を経て、日本で初めての銀行を設立する。
事業家としての顔も目立つが、「晴耕雨読」や「春水満四澤」など、四字熟語や禅語の書を残していることでも有名。七言絶句や澁澤青淵翁手書孝経もあり、1917年に富山県高岡市を訪れ書き残した「博施於民而能済衆」は、文化遺産として高岡市立博物館で保管に保管されている。2019年、1万円札の肖像画に選出。それがきっかけとなり、彼の歴史や功績も注目されるようになった。2021年、孔子の四書「中庸」にある「好学近乎知」がNHKで紹介され、書家としての渋沢栄一も広く知られるようになる。
渋沢栄一の作品の買取ポイント
渋沢栄一の作風
渋沢栄一はオリジナルの詩や歌を書にするよりも、論語や故事成語、格言や古典文学など様々な言葉を筆にしています。雅号は「青淵」。青淵とは生家の裏にあった湧水の淵のことで、18歳になったとき従兄弟から名づけられました。現在は淵もありませんが、旧渋沢邸の裏に青淵公園が整備されています。彼は比較的裕福な農家出身で、家族を手伝っているうちに仕入れや販売スキルを身に着けたので、当時から芸術家肌ではなく事業家としての側面が大きかったのかもしれません。しかし、学んだ知識は豊富、自分が感じた社会の流れや生き方を脳裏に浮かんだ言葉から選び、書によって表現していたのでしょう。
78歳で「百尋桜郭」、90歳で「楽亭壁書」を書にした記録も伝えられていることから、世に出ていない多くの作品が残されている可能性もあります。求められるがまま飛躍していった渋沢栄一の書は、見る人に豊かさと柔軟性を感じさせるでしょう。経済面が取り上げられますが、書に選ばれている言葉は商売に関するものだけでありません。「為善最楽」や「寿海」、「福養以分安」や「四季佳境」など多様。彼が選んだ「これは良い!」と感じる言葉を書にしたことで、その意味もダイレクトに伝わってきます。
渋沢栄一の現在の評価と価値
渋沢栄一は日本の経済を牽引した人物です。彼の登場なくしては、もっと発展が遅れていたかもしれません。掛け軸は多くありませんが、横書きにしたためられた書は仕事やプライベートで訪れた場所へ残し、親類関係に近かった商店や宿泊した旅館、立ち上げた関連企業にゆかりある地域など、当時足を運んだ様々なところでつづられています。「模倣品を買って家に飾ってある」という社長が現れるほど、業界を飛び越えたファンも広がっているでしょう。自作の詩ではなくとも、「渋沢栄一の言葉に感動した」と書を求める人は増え、部屋に飾って眺めたい一般人から、社訓にしたい経営者まで需要が絶えることはありません。
彼の人間性そのものに魅了され、携わってきた教育や福祉、文化や外交が伝えられるたびに書の価値も上がっていくでしょう。日本史の教科書には、大きな出来事や有名なエピソードしか掲載されません。そのため武士や政治家のような派手さはありませんが、1万円札の肖像画になったことで全国民が身近に感じます。言葉の意味を深く知らなくても、「渋沢栄一が書いた」というだけで手元に置いておきたい人が現れないとも限りません。
今後、市場価値も高くなると予想されるので、作品の売却をご検討される場合はお気軽にご相談ください。