西郷南洲(隆盛)の買取価格とポイント
1828年~1877年 物故作家。
薩摩国鍛冶屋町(現在の鹿児島県鹿児島市にある町)に生まれ、5歳から儒学を学び始める。11歳で武術と学問を学び、27歳で西郷家の家督を後継。1858年7月、主君である島津斉彬の急逝後、奄美大島へ行くよう命じられる。1862年4月、1度は薩摩藩へ護送。7月に徳之島へ島流しとなり、さらに島津久光から沖永良部島への遠島処分を申し渡される。そこで薩摩藩士:川口雪篷と出会い、書家だった彼から書や詩作を学習し、「青山長在 七絶三行」や「於もはしな思ひし事は たかふそと おもひ捨ても 思ふはかなさ」の和歌が生まれるきっかけとなった。
西郷南洲(隆盛)の号は「南洲」。南洲とは「南の島」という意味で、彼が沖永良部島へ遠島処分となり、その時代に「西郷南洲」と記述。鹿児島県薩摩川内市にある旧増田家住宅で直筆も発見されている。それによれば、中国の政治家:馬文升の言葉「世路羊腸千里曲 巧名蝸角幾人間」という漢詩が残されていた。意味は「世の中の道は羊の腸のように曲がっている。名前が知られたとしてもそれはまさにカタツムリの角。狭い世界での出来事だからつまらない」という解釈。2022年、宮崎県宮崎市にある元武家だった家からも、「一算機に投ずれば百世を扶け片言令を愆れば千兵を斃す」と書かれた漢詩の掛け軸が見つかっている。
西郷南洲(隆盛)の作品の買取ポイント
西郷南洲(隆盛)の作風
西郷南洲(隆盛)の作品は、武士としての力強さと躍動感を兼ね備えています。特に座右の銘でもあった「敬天愛人」は別格。彼の人間性もそのまま表われ、包容力と芸術性が反映されているでしょう。初期の作品には荒々しい一面もありますが、すべてを達観したような大らかさと筆の流れは圧巻です。厳しい時代を生きてきたからこその大胆さ、現代の人々にも伝わる実直さは人柄も表現されています。政府の特使だった山岡鉄舟へ送った書は「友達の書」。薄墨でつづられており、西南戦争への覚悟を示す内容だったと言われています。
大久保利通へ渡したとされる詩「偶成」の三行書は、西南戦争に敗れ新しい時代を切り開いたにも関わらず、中だるみに甘んじた明治政府への叱責と嘆きを込めたもの。多くの民を思い、国の方向性を案じた気持ちが込められているかもしれません。彼の書は中国の書家を手本とした作品が多く、独特の感性とバランスが共演。明治の立役者となった西郷南洲(隆盛)だからこそ、他にはない重厚な表現力を身に着けていたのでしょう。
西郷南洲(隆盛)の現在の評価と価値
彼の書は100年以上前の作品。「楮紙」と呼ばれる和紙へ書かれたものが多く、色褪せや虫食いなどの劣化が心配されます。保管状態の良い作品であれば高い買取金額もつけられますが、模造したものであるケースも少なくありません。実際に問い合わせいただく多くの作品が贋作で、買取に至らないケースに出くわします。
武士や軍人として人生を送ったその裏で、誰もが認める書を残した書家。見事なまでの生き様と芸術性を合わせ持つ作品は、歴史ファンのみならず骨董・古美術の世界でも高く評価されています。
四行書や友人へ宛てた書簡、草書五字一行書など、まだまだ掘り起こされていない書も眠っているかもしれません。西郷南洲(隆盛)にとっての本業は武士や政治家。書家はあくまでたしなみ程度だったかもしれませんが、歴史的偉業を遂げた彼の書は価値が高く人気もあります。
西郷南洲の作品は所定鑑定機関での鑑定が必要となりますが、鑑定書が取得できれば数十万円台の買取も珍しくありません。
「自宅を整理していたら書が見つかった」「親が書道教室を開いていた」など、様々な事情で作品を手元に置いている人もおられるでしょう。「取り扱いに迷う」「自分が持っていても価値がわからない」という場合や、ご売却をご検討の際はお気軽にご相談ください。