松尾敏男の日本画・買取価格とポイント
1926年-2016年。物故作家。
昭和に活躍した日本画家。長崎市出身。石鹸会社を経営する一家の末っ子として生まれる。1929年に父親の会社が倒産し、一家で上京。1938年、東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)へ入学、体操に熱中するが、病気を機に画家を志す。卒業後は堅山南風の「雨後」に感銘を受けて弟子入りする。南風塾では古画の模写から運筆を学び、写生に勤しんだ。1947年より1952年までは「泉華」と号す。1949年、第34回院展へ出品した「埴輪」で初入選。1962年第47回院展に出品した「陶土に立つ」で奨励賞を受賞。1964年に師・南風が依頼を受けた日光・輪王寺本地堂の鳴龍復元の助手を務める。1967年の北海道への取材旅行を皮切りに各地を旅行し、その体験をもとに制作を行うようになる。1970年第55回院展へ「樹海」を出品、3度目の日本美術院賞受賞、作品は文化庁買上となる。1971年、日本美術院同人に推挙。1975年にインド・パキスタン旅行へ出かけ、第30回春の院展へ「デカン高原」を出品。1979年、中国を訪れ、1980年第35回春の院展へ「出土」を出品。1985年にイタリアに取材旅行し、同年高山辰雄、稗田一穂らと結成した「草々会」の第1回展に、「ヴェネチアの聖堂」など3点を出品。1986年、ギリシャに取材旅行し、第71回院展へギリシャの神父を描いた「ミコノスの聖堂」を出品。1987年多摩美術大学教授に就任。2009年、日本美術院理事長に就任。2012年、文化勲章受章。享年90才。
買取ポイント
松尾敏男の作風
「牡丹の松尾」の異名を持つ松尾敏男の代表作といえば、やはり繊細な色調で描いた花鳥画でしょう。福島県の須賀川牡丹園に毎年通い、スケッチを続けていたことも知られています。丹念に観察して描かれた牡丹の花は、透き通るほど白い花びらを何層にも重ねることで、清らかさとともに高貴な存在感を示しています。
美しく咲き誇る大輪の花の絵で知られる松尾敏男ですが、画家として歩み始めた最初は、廃船や魚の骨をモチーフに、絵の具を厚塗りしたおよそ日本画的ではない作品を描いていました。「鳴龍」復元の際に、師・堅山南風の制作を間近で観察し、絵の具は塗るのではなく描くものと認識を改めて制作した「廃船」は、1966年に日本美術院賞を受賞しています。この時期の松尾作品は、モチーフが単純化され、それらを抽象的な空間に配置することで幻想的な画面を構成しています。魚の骨のモチーフや「鳥碑」と題した作品には、不安な心情や生と死に関わるイメージが描き出されています。
1971年に日本美術院同人となってからは、花鳥画以外にも、清澄な色彩のなかに端然と人物をとらえた肖像画にも取り組みようになり、写生重視の作風に向かいました。新しいモチーフを求めて国内国外を問わず取材旅行に赴き、その地の風景を抒情的な色合いで描いた風景画も、内省的な作品から写実的な作品へと向かう松尾の転換期を示す作例となっています。
松尾敏男の現在の評価と価値
「花の名手」として知られる松尾作品は、牡丹を筆頭に菖蒲や朝顔を描いた花鳥画に高い人気があります。1973年に日本橋三越にて開催した個展において、穏やかな色彩の花鳥画で新境地を開いたのち、1987年に伊勢丹美術館で開催した回顧展「花のいのちを描く」など、花鳥画を中心とした個展によって注目を集めました。庭に遊ぶ猫や横たわる子牛の姿を伸びやかに描いた動物画からは、モチーフに対して常に謙虚な態度で向き合う作者の制作理念が感じ取れます。花鳥、動物、人物、風景など幅広いテーマを扱った松尾敏男ですが、すべての作品にただよう清らかな気品は、今なお見る人を惹きつけています。
最後の院展出品となった「玄皎想」は、牡丹とともに伸びやかに寛ぐ猫の姿を水墨の濃淡と抑制された色彩で表し、余白の美によって日本画の源流に立ち返った傑作です。水墨画への志向を強めていた最晩年の作品には、日本画の真髄にたどり着いた作者の深い洞察が感じられます。