松久宗琳の評価と買取金額
1926年~1992年 物故作家。
京都府京都市に生まれる。1938年、朱雀第三尋常小学校を卒業し、仏像彩色師:八木秀蔵へ弟子入りする。1940年に脊椎カリエスを患うも、翌年に仏師を志して奈良や京都を訪問。飛鳥・白鳳・天平時代の仏像を学ぶ。1948年、彫刻家:佐藤玄々へ弟子入り。その2年後に陶芸家:河井寛次郎と親交を深め、芸術への概念に影響を受けた。そのあと父と共に、愛媛県大洲市にある出石寺の「仁王像」を制作。1962年、京都仏像彫刻研究所を立ち上げる。1963年に大阪四天王寺の「仁王像」、滋賀県延暦寺の「智証大師像」「聖徳太子像」を制作。1964年、第1回宗教美術展を開催した。
1975年に京都大覚寺の「五大明王像」、1976年に金閣寺の「岩屋観音像」を制作。1978年、大阪四天王寺の「阿弥陀如来像」も手がける。1983年から、成田山新勝寺の「五大明王像」と「五智如来像」を制作し始め4年後に完成。それをきっかけとして、同寺から「大仏師」の号を授かった。1984年にインド、1987年に中国広西チワン族自治区の桂林市、1989年に中国山西省にある雲崗石窟を訪問し、仏像彫刻の技術に触れる。「仏像彫刻のすすめ」や「仏像彫刻の技法」なども出版。作品の多くは、松久仏像彫刻会館に保管されている。
買取ポイント
松久宗琳の作風
何よりも大切なのは「仏像への心」です。松久宗琳は心を込めて仏像を彫っていたため、その祈りが彫刻に宿っているのでしょう。作品のすべてはふくよかで繊細、穏やかさや戒めの表情も見事に表現されています。厳しいお顔の「阿修羅像」や「不動明王像」、柔和な「慈母観音像」や「聖観世音菩薩像」など、仏像と向き合いながら制作される作品は、後光が射したように凛とした世界を感じられるかもしれません。仏師として知られる父:松久朋琳と一緒に手がけた作品も多く、親子だからこそわかる相手の技術、仏像彫刻へのこだわりが反映されています。
優雅な「十一面観音立像」や安らぎに包まれる「明音観音像」、「薬師如来像」や「文殊菩薩像」は、緻密な技術と彩色に仏像の醍醐味を楽しめるでしょう。さらにブロンズの「不動明王像」や「毘沙門天像」に至っては、彩色された作品とは異なる迫力や威厳さえ漂っています。修行を開始して初めて売れた作品は観音像でした。それ以降、観音像は仏師としての彼を支え、彫刻を進める原動力となったそうです。仏教彫刻は、松久宗琳にとって人生そのものだったのではないでしょうか。
松久宗琳の現在の評価と価値
プロとしてデビューしてから他界するまでの70年、5,000体~8,000体の仏像を制作しています。神社や寺院、美術館や博物館へ展示される作品も多いですが、まだ発見されていない彫刻もあるでしょう。本人も「何体彫ったかわからない」と発言したほど作品を残しているため、個人で所有するコレクターが多いと言われています。元々仏像彫刻を愛する中高年、ビジネスのお守りとして飾る経営者、彫刻を学ぶ若者などファン層は広く、技術力の高さで右に出る者も存在しません。「弥勒菩薩半跏思惟像」や「釈迦如来立像」、「持国天」や「増長天」は需要も高く、高値でも希望者は多めです。
特大サイズから机に飾れる作品まであり、毎年のように開催される「仏教美術展」へ足を運んでファンになった方が増えているため、これからも注目度は高いでしょう。
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