勝海舟

勝海舟の買取価格とポイント

1823年~1899年 物故作家。
江戸本所亀沢町(現在の東京都墨田区)に生まれる。貧しい暮らしながらも剣術修行に励み、20歳で免許皆伝。オランダ語も習得し、日米修好通商条約を締結させる咸臨丸の艦長となる。そのあと政治に関わり、幕府への進言や助言を実行。西郷隆盛との話し合いで有名な江戸城無血開城を成し遂げる。勝海舟が書をしたため始めたのは諸説あるが、蘭学を勉強した際に辞書「ドゥーフ・ハルマ」を筆写した経験もあり、元々の才能を持っていたかもしれず、一行書や五行書、詩書など多くの作品を残している。

1879年、寺子屋の教師:平野玉城から頼まれ、新築に際し「永谷学校」としたためた書を寄贈。1881年に書いた「六十九種艸堂」は、青森県三沢市指定の有形文化財として登録。牧場主:広沢安任の復元した住居兼書斎に保管されている。2021年、廃校となった小中学校が所蔵する漢詩「志在千里」が、那須歴史探訪館で公開。島根県一畑寺の本堂には、彼が書いた扁額の文字が刻まれている。このように勝海舟の書は様々な場所で眺めることが可能で、武士としてだけではなく、山岡鉄舟や高橋泥舟と共に「幕末の三舟書家」として親しまれている。

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勝海舟の作品の買取ポイント

勝海舟の作風

勝海舟の雅号は「海舟」。本名は勝義邦で通称「麟太郎」と呼ばれていましたが、佐久間象山から譲り受けた書額「海舟書屋」に感銘し、「海舟」に決めたと伝えられています。明治以降は、武家の官位である「安房守」を改名して「安房」と名のりましたが、日本史の教科書や大河ドラマは雅号である「海舟」を採用しているようです。彼は文武両道で鋭い視点を持っていますが、書には遊び心を持ち、「かけとめむ ちひきのいかり つなをなみ たゝよふふねの 行ゑしらすも」としたためた和歌賛には、作品の下部に墨で碇を描いています。「自画賛 咸臨丸」も漢詩と共に咸臨丸の画が描かれており、達筆な文字と素朴な絵を組み合わせた作品です。

「天懐高雅」や「英雄凝女尽千秋」など豪快な書も多く、迷いのない筆運びが特徴でしょう。彼が3年前につづった詩書 「述懐」は、もはや達観の領域。病に倒れたあと快方に向かいますが、半生を振り返った追憶と望郷の念も感じられます。扁額「眠雲」から「片桐且元詩 五行」まで様々な書が残されており、その1つ1つに内面の強さが写し出されているのではないでしょうか。平仮名の曲線美と漢字の豪快さは、新しい時代を導いた勝海舟だからこそ表現できる感覚かもしれません。

勝海舟の現在の評価と価値

港区教育委員会が所蔵する「書画巻」の中には、江戸へ回航する途中で嵐に遭った場面の図とそれにともなう言葉が添えられています。彼は漢詩を元にした作品が多いですが、書にちょっとした画を加えることもあり、当時の書家としては珍しい無邪気さを兼ね備えているでしょう。勝海舟は旧徳川家の家臣の生計を助け、日光東照宮の保存にも尽力したと言われています。このような懐の深さと純粋さが見え隠れする書は、時代を越えても人気が衰えることはありません。幕末の風雲児としてファンも多く、中高年やシルバー世代を中心に高評価を得ています。

勝海舟は自分から売り込むのではなく神社や学校、公民館などから筆を頼まれて書いた過去もあり、誰にでも作品を渡していたわけではありません。それゆえに希少性が高く、市場ではあまり見られない書もあるでしょう。また、幕末三舟としてグループ化されている山岡鉄舟や高橋泥舟とセットにしてオークションへかけられ、高値で落札される場合もあります。

「本物かどうかわからない」「もしかしたらこれは勝海舟の作品では…」と気になる場合や、ご売却をご検討の際は遠慮なくご相談ください。