稗田一穂

稗田一穂の日本画の買取価格とポイント

1920年-2021年。物故作家
日本画家。デザイナーの父、稗田耕一のもと、和歌山県田辺市に生まれる。大阪に転居したのち、1933年に大阪市立工芸学校工芸図案科入学。卒業後に上京し、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に進学。1943年に戦時体制のため繰上げ卒業し、山本丘人に師事する。戦後の1948年に、山本丘人、上村松篁らの日本画家が停滞する画壇の打破を目指して結成した「創造美術」(現・創画会)の第1回展に「花花」を出品し、奨励賞を受賞。第2回展でも奨励賞を獲得し、新進の画家として注目を集める。1951年の新制作協会日本画部の発足時に、会員に推挙される。東京芸術大学講師時代の1966年から1968年まで同大教授陣とともに法隆寺金堂壁画の再現模写に従事。1970年から東京芸術大学助教授、1972年より教授となり、1988年の退官まで後進の指導に当たる。退官後は同大学名誉教授となる。1974年に新制作協会を脱退し、創画会を結成。1985年には出身地である和歌山県の文化賞および田辺市文化賞を受賞。1991年に「月影の道」が日本芸術院賞恩賜賞を受賞。1994年から2007年まで女子美術大学大学院教授。1995年に勲三等瑞宝章を受章、2001年には文化功労者に選出された。2021年3月、老衰のため死去。享年100。


稗田一穂

買取ポイント

稗田一穂の作風

稗田一穂の画業の出発点は、創造美術展出品で評価された花鳥画です。日本画の存続が危ぶまれる時代にあって、稗田は前時代の花鳥画とは一線を画す革新的な作品を発表します。伝統的な花鳥画では描かれなかったオウムやキウイ、カンムリヅルなど独特の特徴を有す異国の鳥を主題とし、それら鳥のモチーフを反復して単純な背景に配置することで、素朴ななかに力強さを感じる作品を多く残しました。南国風の植物のなかをゆったりと歩く豹を描いた「豹のいる風景」など、稗田の作品にはフランスの素朴派アンリ・ルソーからの影響を感じさせるものもあります。
花鳥画とともに稗田作品の中核となるのが、60歳を迎える頃から手掛けた風景画です。1979年の作品「幻想那智」は、タイトルの通り、稗田の故郷である和歌山・熊野の荘厳な風景を暗い色調で重々しく描き出しています。東京でアトリエを構えて以来、制作の場とした成城の風景も多数残されており、1990年に日本芸術院賞を受賞した「月影の道」もその一つです。鬱蒼と樹木が茂る住宅街の坂道を満月が照らし出し、日常でありながら寂寥感の漂う世界が描かれています。1981年の「帰り路」も同様に、夕闇迫る住宅街を歩く女性の心細さが伝わるような、暗い詩情をたたえた作風となっています。





稗田一穂の現在の評価と価値

稗田一穂の作品は、画業の初期から30年にわたって研究をつづけた花鳥画が高評価を得ています。鳥を主要モチーフとし、生命力に満ちた力強い表現と装飾的な画面構成によって日本画に新しい風を吹き込みました。
60歳以降の風景画においては、極端に強調された遠近表現と小さく描かれた不安げな人物像によって、鑑賞者を詩的な作品世界へといざないます。その斬新な構図と幻想性を湛えた作風は、寂しさや不安という心情に寄り添うがゆえに、見る人の共感を呼ぶものとなっています。故郷・熊野に取材した風景画も、厳粛さと寂寥感を併せ持つ独自の視点が感じられ、稗田の画業の展開を跡付ける重要な作例となっています。
2012年に描いた六曲一隻の屏風作品「顕現(Ⅲ)(鳳凰と麒麟)」は、2頭の伝統的な瑞獣を主題としながらも、生き物の息遣いが聞こえてきそうな臨場感が付与され、崇高でありながら脈動する生命感に満ちた大作であり、稗田の画業をさらに広げるものとして評価されました。晩年には、桜を題材とした作品も多数制作しており、桜と月を大胆に組み合わせた独特の描写は、新境地を開いたものとして好評を得ています。

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稗田一穂の作品