バーナード・リーチ

陶磁器作家 バーナ
ード・リーチの略歴

1887年~1979年 物故作家。
香港生まれ。父・イギリス人で母・日本人のもとで育つ。日本在住の祖父母に引きとられ、京都や彦根で幼年時代を過ごす。1890年に父の再婚と転勤に伴い香港に転居し、1903年にはロンドン・スレード美術学校に入学する。1904年に香港上海銀行に入社するが、翌年には退社し、ロンドン美術学校に入学する。1907年にロンドン美術学校でエッチングの技法を学び、ロンドン留学中の高村光太郎と知り合う。1909年に日本に帰国し、東京・上野桜木町に転居する。柳宗悦や富本憲吉と知り合う。1911年に富本憲吉とともに上野公園で行われた万国博覧会に出展していた堀川光山を訪ね、楽焼の絵付けを始め、翌年には6代尾形乾山に入門する。1914年に東京で初の個展を開催する。1917年に師・乾山の窯を譲り受けて、千葉県我孫子市の柳宗悦の邸内に移築する。ここで作陶を開始。1920年に浜田庄司とともにイギリス南西部の港町に転居し、日本の伝統的な登り窯を築窯する。1922年に「リーチ・ポタリー」という名の製陶所を設立する。1934年に再び来日する。日本民藝館設立を目指していた柳宗悦に協力する。1963年に大英帝国勲章を受章する。1974年に国際交流基金賞を受賞する。

バーナード・リーチの作品の買取ポイント

バーナード・リーチの作風|西洋陶器と東洋磁器の技術を融合させた独自の作風

日本で最も有名な外国人陶芸作家ではないでしょうか。ロンドン美術学校を経て、日本に来日した当初はエッチングを指導していました。本格的に陶芸の世界に入ったのは富本憲吉と共に6代尾形乾山への入門です。そこで腕を磨き、戦後は米国、北欧などでも陶芸を指導し、また日本でも屡々の個展を開催するなど陶芸を通じて東西両文化の橋渡しの役割を果たしました。生涯の作陶は10万点以上といわれますが、手元に置いていた作品の殆どはイングランド西部バース市の20世紀工芸博物館に寄贈したといわれています。

陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考え、スリップウェアなどの西洋陶器と東洋陶磁の技術を融合させた独自の作風が特徴的で、「用の美」と呼ばれるような、実用品として手早く作るという制約のなかで発生する美が持ち味です。

バーナード・リーチの作品の現在の評価と価値

没後長らく経過している現在も日本国内で高い評価を得ている作家のひとりです。日本人では到達する事が難しかった独自の表現方法は異国での経験が大きかったのではないでしょうか。買取金額は数万円台から100万円以上と様々です。作品の種類、サイズ、見た目、コンディション等により具体的な金額は異なるため、バーナード・リーチの作品のご売却をご検討の際は、お気軽にご相談ください。

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大原美術館でバーナード・リーチの陶磁器作品の展示中

岡山県倉敷市にある大原美術館には、「民藝運動ゆかりの作家たち」として、濱田庄司や河井寛次郎と共にバーナード・リーチの作品も展示されています。

大原美術館

ルーシー・リーら陶芸作家がバーナード・リーチに
影響を受けイギリス陶芸の地位向上に努めた

長年リーチの助手だったマイケル・カーデューや、オーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡ったルーシー・リーらは、リーチと協力し、または競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めました。そしてたびたび来日し、各地で作陶したほか「Unknown Craftsman(知られざる職人)」などの書を通して民芸運動やその関連作家をイギリスに紹介し、展覧会も開きその理論を解説しました。

バーナード・リーチの代表的な芸術作品