朝倉文夫の評価と買取金額
1883年~1964年 物故作家。
大分県大野郡上井田村(現在の大分県豊後大野市)に生まれる。1902年、19歳のきに彫刻家だった兄を頼って上京。1903年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻選科へ進学する。教授からの紹介で、貿易商に動物像を制作。それと同時期に海軍省が募集した三海将の銅像で、「仁礼景範中将像」を出品して1等を受賞。それがきっかけで世間へ知られるようになった。1907年、第2回文展へ作品「闇」を出品して2等を受賞、1908年は「山から来た男」で3等を受賞するも欧州留学の権利は得られなかった。
1910年、「墓守」を発表。そのあとマレーシア・シンガポール・ボルネオ・ブルネイに滞在し、8ヶ月後に帰国する。その後は、第8回文展まで連続して上位入賞を果たす。1921年に東京美術学校の教授へ就任し、1924年に帝国美術院会員となる。1928年、会員を辞職。6年後にはアトリエをリフォームして「朝倉彫塑塾(後の朝倉彫塑館)」を立ち上げた。1932年、早稲田大学のキャンパス内で「大隈重信像」を制作。1935年に帝国美術院会員へ再任され、その5年後、帝国芸術院会員となった。1944年に教授を退職してから、「従三位」「勲四等瑞宝章」を受章。他にも日展運営会の常務理事や日本芸術院第一部長を歴任し、81歳で他界した際は正三位が贈られている。
買取ポイント
朝倉文夫の作風
「東洋のロダン」と呼ばれる朝倉文夫は、兄である彫刻家:渡辺長男の影響で彫刻の道へ入りました。大の猫好きとして知られ、最初の作品も「吊るされた猫」。猫の首のうしろをつまむ腕と吊り上げられた猫を制作し、猫好きの間で共感を呼び話題となります。他にも「たま」や「よく獲たり」、「のび」や「眠り」など猫をモチーフとした作品が多く、彼の優しさや猫への愛情が反映されているでしょう。1910年に発表された「墓守」は、2001年、石膏原型が国の重要文化財へ。モデルの老人は、朝倉家の人が将棋をさす場面を眺めて笑っている男性がモチーフです。制作のためにポーズをとらせたわけではありません。リアルな状況を切り取って作品にしているため、被写体の自然な表情と雰囲気が伝わります。
「滝廉太郎像」や「九世:市川団十郎像」、「双葉山」や「ライオン」など、60点にのぼる作品は「朝倉文夫記念館」で保管され、その1つ1つに被写体の命が宿っていると言っても過言ではありません。彼の作品はそれだけ躍動感を持ち、今にも動き出しそうなほどエネルギーに満ちています。特に上野駅中央改札口前に設置された「翼の像」は芸術性も高く、存在感を放っています。
朝倉文夫の現在の評価と価値
人気が高いのは猫をモチーフとする作品ですが、「獅子」や「スター」、「猿」や「洋犬」など他の動物作品も注目されています。リアルさを追求する彫刻は細かい動きや表情をとらえ、被写体の特徴を忠実に再現。人生で400点もの作品を残したと言われていますが、すべては公開されていません。屋外への展示、美術館や博物館に並べられている以外は、個人所有なので作品の価値も高まっています。1964年の東京オリンピックに合わせて企画した個展「猫百態」が自身の死で実現しなかったことで、猫をテーマとした作品も驚くほど高値になっているでしょう。これは猫をペットとする流行に後押しされ、美術品として手元に置いておきたい人が増えたからかもしれません。
「聖徳太子像」や「渋沢栄一像」など人物を描写した作品から、浅草寺本堂西側に設置された「鳩ポッポの歌碑」までさまざまな彫刻がありますが、写実主義である朝倉文夫だからこそできた優れた作品となっております。
大型の作品も目立つため「管理が難しい」「相場を知りたい」など、ご売却をご検討の際は美術品買取専門店「獏」へご相談ください。
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