赤瀬川原平

赤瀬川原平の買取価格とポイント

1937 ~ 2014年 物故作家。
神奈川県横須賀市に生まれる。本名は克彦。6人兄弟の下から2番目で、小さいころから芸術的なことが好きであった。戦後に武蔵野美術学校へ入学、仲間とともに芸術や映画などについて学ぶ。1958年に読売アンデパンダン賞に出品、64年まで出品を続ける。様々なグループに参加しており、高松次郎・中西夏之と結成した「ハイレッドセンター」などが有名。駅のホームでハプニングを行ったり身の回りの物を梱包するといった前衛美術に力を入れていたが、1963年に千円札を一色で印刷したものを作品として発表したため、警察から通貨及び証券模造取締法違反に問われ起訴される。これが有名な「千円札裁判」である。弁護人には赤瀬川の仲間である芸術家たちが登場し、自らの作品を発表するなど、法廷がまるで美術館になったかのようだと非常に話題を呼んだ。判決は有罪となり、赤瀬川は前衛美術からは一線を引くようになる。その後は漫画家デビューしたり、尾辻克彦の名前で小説や随筆を書き1980年に執筆した「父が消えた」で1981年に芥川賞を受章。幅広いジャンルで発信を続けながら近代の芸術家を牽引してきた、類まれな才能の持ち主であった。

赤瀬川原平について
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買取ポイント

赤瀬川原平の作風

反芸術への気運が高まる1960年に、赤瀬川ら多数の芸術家が「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を結成します。当時の作品は過激で異質なものが多く、高度成長期による発生する大量消費などへのアンチテーゼから、廃品で立体作品を作ったり、身近なものを梱包する「梱包作品」を制作していました。千円札裁判後、赤瀬川はイラストや装丁、漫画に力を入れます。朝日ジャーナルで「櫻画報」という連載を持っていましたが、パロディや風刺が効きすぎたその過激な内容から、回収・休刊騒ぎとなります。1970年代に入り、美学校での講師を経て、たくさんの若手芸術家に刺激を受け赤瀬川の制作はさらに広がりを見せます。そんな中赤瀬川は不動産に付属する特に役割もないが、なんとなく不思議な存在感を持つ建造物「トマソン」を発見し、「四谷の純粋階段」または「四谷怪談」をもじり「四谷階段」と称すなど芸術学上の概念をつくった。芸術家仲間とカメラ片手に町中を歩き、様々なトマソンを写真に撮り、解説を付けて発表するという活動は、今でいう「映える」の原点なのかもしれません。

赤瀬川原平の現在の評価と価値

赤瀬川原平の絵画作品はそこまで多くはなく、【大日本零円札】が代表的な作品と言えるでしょう。
他にも版画などを発表しているため、赤瀬川原平作品のご売却をご検討している方はお気軽にご相談ください。

赤瀬川原平の代表作品

  • ねじ式(シルクスクリーン)

    (1969年)

  • トマソン黙示録(オフセット)

    (1988年)

  • 大日本零円札(オフセット)

    (1967年)