今回は、80歳を超えても精力的に傑作を生み出し続けた富岡鉄斎について、作品の買取価格の相場や高値で買い取ってもらうためのポイントなどを幅広く紹介します。
富岡鉄斎の作品の買取価格相場
艤槎図(1924年)出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江戸時代末期から大正時代にかけて活躍した文人画家、富岡鉄斎は力強い筆さばきで数多くの書画を残しました。その作品は国内外で人気を集め、現在も高く評価されています。
屏風
富岡鉄斎の屏風のなかには、重要文化財に指定されているものもあります。したがって、作品の状態にもよりますがある程度まとまった金額、数万円前後で買い取ってもらえる可能性が高いでしょう。
掛軸(書・水墨画)
富岡鉄斎の掛軸も数万円程度で買取となる可能性が高いでしょう。特に掛軸の場合は共箱など付属品の有無でも買取金額が変わります。ただし、風鎮(掛軸が風で揺れるのを防ぐためのおもり)にはほとんど値段が付きません。
高価買取には落款が必要
屏風や掛軸にしてもその他の作品にしても、富岡鉄斎の作品は落款があると高価買取につながりやすいでしょう。落款とは「落成款識(らくせいかんし)」の略で、作品が完成した時に自らの作品であることを証明するために記す名前や年月などのことを言います。
富岡鉄斎は、鉄斎のほか鉄道人・鉄崖(てつがい)などの号を用いているので、買取時にはそのような署名がないか確認します。
富岡鉄斎の作品を高価格で買い取ってもらう方法
富岡鉄斎の作品を高価格で買い取ってもらうためには、以下に紹介する二つのポイントを押さえておきましょう。
入手直後であれば綺麗な状態で買取依頼できるよう保存環境に気を遣う
富岡鉄斎の作品を高価格での買取につなげるには、保存状態に気を配っておくことが何より重要です。入手直後であれば、シミや傷が生じないように温度や湿度に気を付けて保管しましょう。紙や絹に描かれた作品は、室温20~25℃、湿度50~60%くらいをもっとも好みます。できるだけ温度や湿度ができるだけこの数値に近づくように心がけるとよいでしょう。
シミができるのを避けるには、1年に1度乾燥した時期に2~3日程度陰干し、乾燥剤を入れて保管するのがおすすめです。また、風通しがよく直射日光の当たらないところで保管しましょう。
また、出し入れや飾っている最中には傷がつかないように注意を払います。絵画のように作品を保護するアクリルがないため、傷が付きやすいことも覚えておいてください。傷がつくと当然価値が下がります。
実績のある美術品買取の専門店へ買取を依頼する
美術品や骨董品の買取では、業者の知識や鑑定眼の有無によって大きく買取価格が変動します。そのため、業者に出すときには信頼のおける業者を選ぶようにしましょう。富岡鉄斎の作品なら、美術品買取の専門店へ依頼すると安心です。
美術品買取専門店の株式会社獏は書画や骨董品の鑑定経験が豊富にあり、富岡鉄斎の作品についても多方面から正確な評価ができます。売却を検討している方がいらっしゃいましたら、株式会社獏にぜひお声かけください。店頭に足を運ぶのが難しい場合は、ご希望によりLINE査定も可能です。
富岡鉄斎の代表作品を解説
それでは、富岡鉄斎の中期以降の作品の中から、特に人気のあるものをいくつか取り上げて紹介します。
安倍仲麻呂明州望月図
『阿倍仲麻呂明州望月図』は次に紹介する『円通大師呉門隠栖図』と対になった六曲一双の屏風です。六曲一双とは6枚折りの屏風が2つセットになったものを指します。重要文化財に指定されている作品で、『阿倍仲麻呂明州望月図』はその右隻にあたります。
制作年 | 1914(大正3)年 |
大きさ | 170.0×376.0cm |
所在地 | 辰馬考古資料館(兵庫県西宮市) |
*文化遺産オンライン / 富岡鉄斎
円通大師呉門隠栖図
『円通大師呉門隠栖図』は上の作品と対になっており、こちらは左隻です。『阿倍仲麻呂明州望月図』が月を見て故郷を思った仲麻呂が明州にて「天の原」を詠んだという故事を描いているのに対し、『円通大師呉門隠栖図』は僧侶の寂昭(円通大師)が逗留の勧めに従いつつ自ら姑蘇の奇秀なる山水をめで、呉門寺に隠棲することとなった故事を描いています。
制作年 | 1914(大正3)年 |
大きさ | 170.0×376.0cm |
所在地 | 辰馬考古資料館(兵庫県西宮市) |
*文化遺産オンライン / 富岡鉄斎
二神会舞図
『二神会舞図』は1964(昭和39)年に清荒神清澄寺より東京国立博物館へ寄贈された掛軸です。最晩年の傑作として名高いこの作品は、富岡鉄斎が亡くなったその年に制作されました。描かれているのは「古事記」の天孫降臨神話における一場面です。
制作年 | 不明 |
大きさ | 168.8×85.5cm |
所在地 | 東京国立博物館 |
*鉄斎美術館 / 《二神会舞図》
旧蝦夷風俗図
『旧蝦夷風俗図』は、富岡鉄斎が1874(明治7)年に北海道の西部を旅行して見聞したこととその他の資料から集めた内容を合わせて制作した二曲一双の屏風です。右隻にはアイヌの人々が行う熊祭り(イオマンテ)の様子が、左隻にはアイヌの人々の生活が描かれています。
制作年 | 1896(明治29)年 |
大きさ | 166.5×183.6cm |
所在地 | 東京国立博物館 |
*文化財オンライン / 富岡鉄斎
水墨山水図
富岡鉄心は水墨山水が得意で多くの作品を残しました。その中の一つである1922(大正11)年に描かれた『水墨山水図』は、晩年に残した名品といえるでしょう。ダイナミックな筆遣いで描かれた雄大な山々からは、生き生きとした迫力が感じさせられます。
制作年 | 1922(大正11)年 |
大きさ | 40×145.5cm |
所在地 | 東京国立博物館 |
富士山図屏風
富岡鉄斎が還暦を過ぎた頃に描いた『富士山図屏風』は、兵庫県宝塚市の有形文化財(美術工芸品)にも指定されています。二つの屏風が対になった六曲一双の作品で、一方には富士山の全体図が、もう一方には富士山の火口がアップで描かれています。
制作年 | 1898(明治31)年 |
大きさ | 153.0×352.5cm |
所在地 | 清荒神清澄寺 |
*文化財オンライン / 富岡鉄斎
富岡鉄斎の略歴
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』1837(天保7)年、富岡鉄斎は京都の法衣商(僧や尼が着る衣服を商う店)を営む家に、次男として生を受けました。名は百錬、字(あざな)は無倦(むけん)、号は鉄斎のほか鉄道人・鉄崖(てつがい)などを用いました。
富岡鉄斎は少し耳が不自由であったものの、幼いころから勉学に励み高い教養を身に着けました。15歳のころからは国学を大国隆正に、漢学を岩垣月洲に、絵画を窪田雪鷹らに学んでいます。
1855年:女流歌人の大田垣蓮月尼に薫陶を受ける
1855(安政2)年、富岡鉄斎は尼僧で歌人の太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の書生となりました。太田垣蓮月の清廉な生き方は、若き日の富岡鉄斎に大きな影響を与えたといわれています。
富岡鉄斎は、流派を問わず熱心に絵画を学びました。南北合派の窪田雪鷹のほかにも、小田海僊からは南画を、浮田一蕙からは大和絵の手ほどきを受けます。1861(文久元)年には長崎に行って明清画を実見しました。
幕末には勤王家として国事にあたり、維新後は学者としても広く知られるようになりました。明治初期には石上神社(奈良県)の小宮司や大鳥神社(大阪府)の大宮司も務めています。
1874年:松浦武四郎との交流から北海道を旅する
松浦武四郎は幕末から明治にかけて活躍した探検家で、蝦夷地を探索し「北海道」と名付けた人としても知られます。松岡武四郎は富岡鉄斎と大変親しくしていました。
1874(明治7)年に富岡鉄斎は北海道の西部を旅行します。そして約20年後の1896(明治29)に、北海道で見聞きしたことやさまざまな資料をもとにして、先述の「旧蝦夷風俗図」を制作しました。
1886~1919年:画業での成果が認められ顧問や評議員を務める
富岡鉄斎は1882(明治15)年に京都に戻ってから、より熱心に書画に取り組むようになります。また、画業での成果が認められ、1886(明治19)年からは京都青年絵画研究会展示会の評議員、1890(明治23)年からは京都美術協会委員、1891(明治24)年からは京都市立日本青年絵画共進会顧問を務めました。
富岡鉄斎はこの頃さまざまな展覧会で審査員を務めるも、自らの学者としての立場を鑑みて出品することはありませんでした。
1897年:田能村直入・谷口藹山らと日本南画協会を発足
1897(明治30)年、富岡鉄斎は南画家の田能村直入(たのむらちょくにゅう)と谷口藹山(たにぐちあいざん)らとともに「日本南画協会」を設立しました。この日本南画協会は戦中戦後を経て1960(昭和35)年に社団法人日本南画院、2010(平成22)年に公益財団法人日本南画院として継承され、現在も活動中です。
また、富岡鉄斎は1917(大正6)年から帝室技芸員、1919(大正8)年から帝国美術院会員もつとめています。
1920~1921年:美術展に賛助出品し大阪で個展も開催
富岡鉄斎は1920(大正9)年の聖徳太子御忌千三百年記念美術展に「蘇東坡図」を賛助出品しました。蘇東坡(そとうば)とは、人間愛溢れる力強い書画を数多く生み出した中国の宋時代の詩人です。
富岡鉄斎は蘇東坡と同じ誕生日であることに縁を感じ、蘇東坡を敬愛していました。1921(大正10)年に大阪高島屋で開催した個展でも、蘇東坡の言葉にちなんだ書画を出品しています。
1924(大正13)年の大晦日、富岡鉄斎は持病の悪化により自宅にて息を引き取りました。
*岡山県立美術館所蔵作品検索システム / 作家情報データ&作品一覧 / 富岡鉄斎
*徳島県立近代美術館 / 作家詳細情報 / 富岡鉄斎
富岡鉄斎の作品の世界観
富岡鉄斎は幼いころから幅広い学問を身に着け、その教養をもとに多くの書画を残しました。中国の明清絵画や南画をメインとしながらも、日本古来の大和絵や浮世絵などの技法を吸収し、独自の表現を確立しています。その作品からは敬慕していた太田垣蓮月譲りの高潔な人柄もうかがい知ることができます。
富岡鉄斎は、自分は「儒学者」であると考え、絵画はあくまでも余技であるという信念を貫きました。鑑賞を目的とした絵画ではなく人の役に立つ有益な絵画を描くことに重点を置き、「自分の絵を観るときにはまず賛文(書画に書かれる詩)を呼んでほしい」と常々訴えていたといいます。
富岡鉄斎の書画の特徴は力強く気迫に満ちた筆遣いで、特に中国古典を題材にした作品を多く残しました。全部で一万点を超える作品を残したといわれており、晩年の作品ほど高く評価されています。
富岡鉄斎の作品は「鉄斎美術館『聖光殿』」にて鑑賞可能
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
富岡鉄斎の作品は兵庫県宝塚市、清荒神清澄寺の境内にある鉄斎美術館「聖光殿」で鑑賞できます。鉄斎美術館「聖光殿」とは、清荒神清澄寺にて半世紀以上にわたり収集されてきた富岡鉄斎の作品を広く公開するために作られた美術館です。
清荒神清澄寺では、富岡鉄斎の書画に加えて手づくりの陶器や鉄斎が模写した絵などを幅広くコレクションしており、その数は2,000点以上にもなります。
正面玄関にある「聖光殿」という扁額と「鉄斎美術館」という門標の文字は、昭和から平成にかけて活躍した書家森田子龍の筆によるもので、こちらも見どころの一つです。富岡鉄斎の作品を生で見てパワーを感じ取りたい方は、ぜひ足を運んでみてください。
ただし、2018(平成30)年11月26日より資料整理のため鉄斎美術館「聖光殿」は休館しています。展覧会は鉄斎美術館別館「史料館」で鑑賞可能です。
清荒神清澄寺 鉄斎美術館「聖光殿」の公式HPはこちら
富岡鉄斎に関する豆知識(トリビア)
最後に、富岡鉄斎の私生活が垣間見えるような興味深い豆知識を二つ紹介しましょう。
妻は中島華陽の娘
富岡鉄斎は1867(慶応3)年、に日本画家の中島華陽の娘である「達(たつ)」と結婚しました。しかし、達は1869(明治2)年に21歳で亡くなります。二人の間には長女の「秋」がいました。
その後は1872(明治5)年に、伊予藩士佐々木禎三の三女「春子」と結婚し、生涯添い遂げます。春子との間には長男の「謙蔵」を授かりました。
京都市美術学校で教員を務めるなど教育者としても活躍
富岡鉄斎は、明治初期に宮司や教員など意外な職についています。宮司職については先述の通りですが、1869(明治2)年には私塾立命館で、1893(明治26)年から1904(明治37)年にかけては京都市美術学校で、教員の仕事にあたり教育者としても活躍しました。
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