前田青邨の掛軸や日本画の買取価格とポイント
1885年-1977年。物故作家。
明治から昭和にかけて活躍した日本画家。岐阜県中津川市出身。小学校から画才を示し、画家の道を進むため14才で上京、本郷京華中学に入学。健康を害して退学し、一旦帰郷。1901年、16才で再び上京。尾崎紅葉の勧めで、挿絵画家としても人気を誇った大和絵の大家・梶田半古の画塾に入る。古画の習得と写生に励み、有職故実の研究も進め、1902年に半古から「青邨」の雅号を貰う。1907年、画塾先輩の小林古径とともに、安田靱彦、今村紫紅らによる紅児会へ参加。1911年に下村観山の仲立ちで、荻江節の初代荻江露章の妹・松本すゑ(5代目荻江露友)と結婚。1914年、再興した日本美術院に参加。1922年、小林古径とともに日本美術院の留学生として約1年間渡欧し、イタリア中世の絵画に感銘を受ける。1923年に、大英博物館にて中国・東晋の名画「女史箴図巻」を模写して帰国。1930年「洞窟の頼朝」で第1回朝日文化賞受賞。1951年、東京芸術大学日本画科主任教授に就任、平山郁夫など後進の育成に努める。1955年に文化勲章を受章、中津川市名誉市民となる。1967年、法隆寺金堂壁画再現事業の総監修に安田靱彦とともに就任、1973年には高松塚古墳壁画模写事業総監修者を委嘱されるなど、文化財行政面でも尽力した。享年92才。
買取ポイント
前田青邨の作風
梶田半古のもと、大和絵の伝統を深く学んだ青邨の代表作は、切手にも採用された「洞窟の頼朝」です。平家方に惨敗し、箱根山中の洞窟で再起を期す源頼朝主従7名を描いた本作は、昭和を代表する歴史画の優品として2010年に重要文化財に指定されました。色とりどりの武具を精確な線描と巧みな彩色とで表現し、頼朝を中心に緊迫した場面が描かれます。その確かな構成力は、師の半古から古画の模写研究と人物や古器物の綿密な写生を厳しく薫陶されたことに由来します。青邨は古典の文学的要素に基づく伝統的な武者絵から離れ、古典を主題としつつも、古画研究と写生によって細部まで端麗に描き出す独自の近代的歴史画を確立しました。
一方、大正から手掛けた風景画においても写生を重視し、旅先で取材した風景を瑞々しく描きあげた「イタリー所見」「朝鮮之巻」「京名所八題」には、大胆な構図と自由闊達な線描が見られ、青邨作品の豊かな広がりを示しています。昭和に入ると、歴史画を軸に肖像画、風景画、花鳥画へとジャンルを広げ、華麗な色彩によって日本画の装飾性を追求する作品から、色彩を抑えて優美な線で構成する水墨画まで、その画業の幅を広げていきました。
前田青邨の現在の評価と価値
一級品の作品であれば1000万円を超える評価もできますが、そのような作品は美術館クラスのため市場には殆ど出回っていないです。現実的な買取金額は数十万~数百万円前半ではないでしょうか。モチーフ、サイズ、コンディション等によって具体的な買取金額が決定します。
青邨作品の魅力は、濁りのない鮮やかな色彩表現と圧倒的なディテールの細密描写にあります。若き日に紅児会会場で岡倉天心から受けた「にごりを取りなさい」という助言を受けて奮起した青邨は、より研ぎ澄まされた色彩感覚へと到達しました。琳派の「たらしこみ」の技法も習得し、絵の具が乾かないうちにほかの絵の具をたらしてにじませることでモチーフに深みをだし、おおらかで格調高い作品を生み出しています。1949年の「真鶴沖」は源平合戦に取材し、深みある海の色彩と精緻に描かれた甲冑に、歴史画の名手としての青邨の画技と構成力が余すところなく発揮され、高く評価される作品です。
青邨は1930年の「罌粟(けし)」以降、本格的に花鳥画に取り組みます。金屏風に端然と描かれた罌粟の描写には気品が漂い、日本画の装飾美が極められています。牡丹や菊など四季折々の花々を描いた青邨ですが、最も得意としたのは梅でした。繰り返し描いた「紅白梅」の主題は、紅白の梅の木を画面いっぱいに配置した大胆な構図と、華麗な色彩と技巧をこらした豪華絢爛さで知られ、人気の高い作品です。墨で羽を瑞々しく仕上げた1940年の「鵜」、猫や鶴など身近な動植物を巧みな構図と繊細な線描でとらえた花鳥画作品も、青邨の人気を不動のものにしています。