清らかで気品ある美人画を多く制作した上村松園は、日本を代表する女流画家のひとりです。上村松園は明治から昭和にかけての京都画壇で活躍し、1948(昭和23)年には女性で初めての文化勲章を受章しました。
上村松園は、周囲の反対を押し切って画家としての道を貫き、自らの芸術を究めて「美人画の巨匠」とまで呼ばれるようになりました。今回は、日本画家上村松園の略歴や松園の残した数々の名作のなかでも特に有名な代表作品6点を紹介します。
出典元:ウィキメディア・コモンズ
上村松園は、1875(明治8)年に京都市下京区四条通御幸町に生まれました。上村松園の実家は葉茶屋(茶葉を売る店)でしたが、父親は松園が生まれる約2か月前に亡くなっていたために、母親の仲子によって女手ひとつで育てられました。上村松園は幼いころから絵が大好きで、特に葛飾北斎の描いた浮世絵に魅せられたといいます。
1887年(明治20年)、上村松園は母親のすすめで京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学します。学校では狩野派の源流である北宋画(中国の古典絵画)を学ぶために鈴木松年に師事しました。しかし、上村松園が入学してすぐに鈴木松年が退職したため、上村松園も京都府画学校を退学して松年塾に入りました。女性が絵を学ぶことについて反対する親戚が多かった中で、母親の仲子だけが上村松園の味方になって支えたといいます。
1890年(明治23年)、上村松園は第3回内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品します。『四季美人図』は「松園」の号を使って制作した初めての作品でした。この作品によって上村松園は15歳の若さで一等褒状を受賞し、さらに『四季美人図』が来日中の英国王子アーサー・コノート公爵によって買い上げられたため、大きな話題となりました。
鈴木松年の寵愛を受けたことが反発を買ったために松年塾を離れることとなった上村松園は、1893年(明治26年)に幸野楳嶺(こうのばいれい)の画塾に移ります。しかし、入塾して間もなく幸野楳嶺はこの世を去り、1895年(明治28年)からは門下筆頭であった竹内栖鳳(たけうちせいほう)に師事することとなりました。
1902年(明治35年)に上村松園の長男、信太郎(のちの松篁)が誕生し、翌年には画業に専念するために茶屋を廃業して中京区車屋町御池に転居します。また、1914(大正3)年から習い始めた謡曲(ようきょく。能の声楽部分。うたい。)は上村松園に大きな影響を与え、この頃から謡曲を扱った作品を制作するようになります。
昭和に入ると、上村松園は皇室に献上する作品や名家から依頼を受けた作品を次々と制作しました。また、上村松園に寄り添い支えた母の仲子が1934年(昭和9年)に亡くなると、母を追慕する美しい作品群を制作します。女性の胸像、または上半身像をクローズアップする様式、松園様式を確立したのもこの頃で、以降上村松園は独自のスタイルで多くの美人画を生み出しました。
1945年(昭和20年)、上村松園は戦火から逃れるために息子松篁の画室、奈良県生駒郡平城の唳禽荘(れいきんそう)に疎開します。1948年(昭和23年)には、女性として初の文化勲章を受章しました。1949年(昭和24年)の夏、上村松園は肺癌により74歳でこの世を去りました。
出典元:ウィキメディア・コモンズ
それでは早速、上村松園の描いた作品のなかから特に有名な6点を取り上げて紹介します。
京都画壇の近代化を推し進めた竹内栖鳳から古画の研究の重要性を学んだ上村松園は、その教えを活かして『清少納言』を制作しました。清少納言の着ている十二単の細密な美しさからは、古画研究の成果が見て取れます。1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会に出品したこの作品で、上村松園は二等褒状を与えられました。
上村松園が描いた『清少納言』は、枕草子に登場する機転に富んだ清少納言を再現した作品です。中宮定子が「香炉峰の雪いかならむ(香炉峰の雪はいかがかしら)」という問いかけをしたところ、清少納言がそれに応じて暖簾をあげたという場面を描いています。香炉峰は白居易(唐代の詩人)の詩に登場する山のことで、平安時代の日本人は白居易の詩を好んだといわれています。
『人生の花』は嫁入りの様子を描いた1899(明治32)年の作品です。呉服商ちきり屋の娘の嫁入りを手伝ったときに得たインスピレーションをもとに制作されました。
上村松園はこの作品で「花嫁の恥ずかしい不安な顔と、付添う母親の責任感のつよく現れた緊張の瞬間」を表現したとのちに語っています。
下唇に塗った笹色紅(反射の具合で笹色に輝く紅)や青眉(眉を剃ったあとの青々とした様子。既婚女性の昔の慣習)からは江戸時代後期の文化が、黒い婚礼衣装からは明治時代の文化が感じられます。凛とした美しさを切り取ったこの作品は、上村松園の作品の中でも特に人気の高い作品です。現在京都市京セラ美術館に所蔵されています。
1914(大正3)年に描かれた『娘深雪』は、浄瑠璃『朝顔日記』に出てくる深雪(みゆき)を描いたものです。山田案山子が作った浄瑠璃『朝顔日記』は、深雪という娘が恋人を慕って家出し、流浪の末に盲目となって恋人の残した歌を歌うという悲劇の物語です。
上村松園はこの作品で、深雪が恋人からもらった扇を見ていたところで人の気配を感じ、あわててたもとに隠したという場面を描きました。悲劇が待ち受けていることなど思いもかけない、若い娘の可憐な姿を表現したドラマティックな作品です。現在京都の足立美術館に所蔵されています。
こちらの作品は版画として販売されています。
1918(大正7)年に描かれた『焔(ほのお)』は、上品な美しさが特徴の上村松園の作品の中で異彩を放つ作品といえるでしょう。謡曲「葵上」から着想を得て制作されたこの作品は、源氏物語に出てくる六条御息所の生霊を惨たる姿を描いています。
上村松園は、光源氏の正妻である葵上の懐妊を知って生霊と化した六条御息所を、髪の端を噛んで振り返る姿で表現しました。青白い顔に描かれた吊り上がった眼には、裏側から金泥がほどこされています。これは、謡曲の師である金剛巌から、能楽では嫉妬をあらわすときに白眼のところに金泥を入れた面を使うことを教えられたためです。
上村松園は『焔』を描いた前後で芸術上のスランプに苦しめられました。育ての親と仰いだ師の鈴木松年が1918(大正7)年に亡くなったことも関係していたのかもしれません。
出典元:ウィキメディア・コモンズ
1922(大正11)年の作品『楊貴妃』は、玄宗皇帝に寵愛された唐代の絶世の美女を描いた作品です。現在京都の松伯美術館に所蔵されています。
上村松園は、この作品で湯あみを終えたばかりの楊貴妃が女官に世話されている場面を捉えています。柳眉に切れ長の目に微笑みを浮かべた表情からは、何ともいえない高貴で優雅な雰囲気が感じられるでしょう。
第4回帝展に出品された『楊貴妃』は、『焔』の後で上村松園がスランプを脱するきっかけとなった作品でもあります。『楊貴妃』を描いた後、上村松園は唐美人や和美人を描いた作品を続けて制作しました。
1936(昭和11)年に制作された『序の舞』は「謡曲3部作」のうちのひとつで、上村松園の代表作品として広く知られています。上村松園が仕舞の会で見かけた光景を描いており、逆手に扇子を持った右手には振袖がかかっています。このことからは一瞬前にあったであろう激しい動きが伺われるでしょう。
上村松園はこの作品について「現代上流令嬢の仕舞姿なので仕舞の持つ古典的で優美で端然とした心もちを表現したいと思いました」と語っています。のちに重要文化財に指定された『序の舞』は、2018(平成30)年に修復が完成し、現在は東京藝術大学大学美術館に所蔵されています。
娘深雪と同様に版画にもなっているモチーフです。
1875(明治8)年、京都市に生まれた上村松園は、鈴木松年や竹内栖鳳らに学んで独自の美人画の様式を確立し、「美人画の巨匠」と呼ばれるようになりました。
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上村松園は、周囲の反対を押し切って画家としての道を貫き、自らの芸術を究めて「美人画の巨匠」とまで呼ばれるようになりました。今回は、日本画家上村松園の略歴や松園の残した数々の名作のなかでも特に有名な代表作品6点を紹介します。
上村松園の略歴
出典元:ウィキメディア・コモンズ
上村松園は、1875(明治8)年に京都市下京区四条通御幸町に生まれました。上村松園の実家は葉茶屋(茶葉を売る店)でしたが、父親は松園が生まれる約2か月前に亡くなっていたために、母親の仲子によって女手ひとつで育てられました。上村松園は幼いころから絵が大好きで、特に葛飾北斎の描いた浮世絵に魅せられたといいます。
1887年(明治20年)、上村松園は母親のすすめで京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学します。学校では狩野派の源流である北宋画(中国の古典絵画)を学ぶために鈴木松年に師事しました。しかし、上村松園が入学してすぐに鈴木松年が退職したため、上村松園も京都府画学校を退学して松年塾に入りました。女性が絵を学ぶことについて反対する親戚が多かった中で、母親の仲子だけが上村松園の味方になって支えたといいます。
1890年(明治23年)、上村松園は第3回内国勧業博覧会に『四季美人図』を出品します。『四季美人図』は「松園」の号を使って制作した初めての作品でした。この作品によって上村松園は15歳の若さで一等褒状を受賞し、さらに『四季美人図』が来日中の英国王子アーサー・コノート公爵によって買い上げられたため、大きな話題となりました。
鈴木松年の寵愛を受けたことが反発を買ったために松年塾を離れることとなった上村松園は、1893年(明治26年)に幸野楳嶺(こうのばいれい)の画塾に移ります。しかし、入塾して間もなく幸野楳嶺はこの世を去り、1895年(明治28年)からは門下筆頭であった竹内栖鳳(たけうちせいほう)に師事することとなりました。
1902年(明治35年)に上村松園の長男、信太郎(のちの松篁)が誕生し、翌年には画業に専念するために茶屋を廃業して中京区車屋町御池に転居します。また、1914(大正3)年から習い始めた謡曲(ようきょく。能の声楽部分。うたい。)は上村松園に大きな影響を与え、この頃から謡曲を扱った作品を制作するようになります。
昭和に入ると、上村松園は皇室に献上する作品や名家から依頼を受けた作品を次々と制作しました。また、上村松園に寄り添い支えた母の仲子が1934年(昭和9年)に亡くなると、母を追慕する美しい作品群を制作します。女性の胸像、または上半身像をクローズアップする様式、松園様式を確立したのもこの頃で、以降上村松園は独自のスタイルで多くの美人画を生み出しました。
1945年(昭和20年)、上村松園は戦火から逃れるために息子松篁の画室、奈良県生駒郡平城の唳禽荘(れいきんそう)に疎開します。1948年(昭和23年)には、女性として初の文化勲章を受章しました。1949年(昭和24年)の夏、上村松園は肺癌により74歳でこの世を去りました。
上村松園の代表的な作品まとめ
出典元:ウィキメディア・コモンズ
それでは早速、上村松園の描いた作品のなかから特に有名な6点を取り上げて紹介します。
清少納言
京都画壇の近代化を推し進めた竹内栖鳳から古画の研究の重要性を学んだ上村松園は、その教えを活かして『清少納言』を制作しました。清少納言の着ている十二単の細密な美しさからは、古画研究の成果が見て取れます。1895(明治28)年の第4回内国勧業博覧会に出品したこの作品で、上村松園は二等褒状を与えられました。
上村松園が描いた『清少納言』は、枕草子に登場する機転に富んだ清少納言を再現した作品です。中宮定子が「香炉峰の雪いかならむ(香炉峰の雪はいかがかしら)」という問いかけをしたところ、清少納言がそれに応じて暖簾をあげたという場面を描いています。香炉峰は白居易(唐代の詩人)の詩に登場する山のことで、平安時代の日本人は白居易の詩を好んだといわれています。
人生の花
『人生の花』は嫁入りの様子を描いた1899(明治32)年の作品です。呉服商ちきり屋の娘の嫁入りを手伝ったときに得たインスピレーションをもとに制作されました。
上村松園はこの作品で「花嫁の恥ずかしい不安な顔と、付添う母親の責任感のつよく現れた緊張の瞬間」を表現したとのちに語っています。
下唇に塗った笹色紅(反射の具合で笹色に輝く紅)や青眉(眉を剃ったあとの青々とした様子。既婚女性の昔の慣習)からは江戸時代後期の文化が、黒い婚礼衣装からは明治時代の文化が感じられます。凛とした美しさを切り取ったこの作品は、上村松園の作品の中でも特に人気の高い作品です。現在京都市京セラ美術館に所蔵されています。
娘深雪
1914(大正3)年に描かれた『娘深雪』は、浄瑠璃『朝顔日記』に出てくる深雪(みゆき)を描いたものです。山田案山子が作った浄瑠璃『朝顔日記』は、深雪という娘が恋人を慕って家出し、流浪の末に盲目となって恋人の残した歌を歌うという悲劇の物語です。
上村松園はこの作品で、深雪が恋人からもらった扇を見ていたところで人の気配を感じ、あわててたもとに隠したという場面を描きました。悲劇が待ち受けていることなど思いもかけない、若い娘の可憐な姿を表現したドラマティックな作品です。現在京都の足立美術館に所蔵されています。
こちらの作品は版画として販売されています。
焔(ほのお)
1918(大正7)年に描かれた『焔(ほのお)』は、上品な美しさが特徴の上村松園の作品の中で異彩を放つ作品といえるでしょう。謡曲「葵上」から着想を得て制作されたこの作品は、源氏物語に出てくる六条御息所の生霊を惨たる姿を描いています。
上村松園は、光源氏の正妻である葵上の懐妊を知って生霊と化した六条御息所を、髪の端を噛んで振り返る姿で表現しました。青白い顔に描かれた吊り上がった眼には、裏側から金泥がほどこされています。これは、謡曲の師である金剛巌から、能楽では嫉妬をあらわすときに白眼のところに金泥を入れた面を使うことを教えられたためです。
上村松園は『焔』を描いた前後で芸術上のスランプに苦しめられました。育ての親と仰いだ師の鈴木松年が1918(大正7)年に亡くなったことも関係していたのかもしれません。
楊貴妃
出典元:ウィキメディア・コモンズ
1922(大正11)年の作品『楊貴妃』は、玄宗皇帝に寵愛された唐代の絶世の美女を描いた作品です。現在京都の松伯美術館に所蔵されています。
上村松園は、この作品で湯あみを終えたばかりの楊貴妃が女官に世話されている場面を捉えています。柳眉に切れ長の目に微笑みを浮かべた表情からは、何ともいえない高貴で優雅な雰囲気が感じられるでしょう。
第4回帝展に出品された『楊貴妃』は、『焔』の後で上村松園がスランプを脱するきっかけとなった作品でもあります。『楊貴妃』を描いた後、上村松園は唐美人や和美人を描いた作品を続けて制作しました。
序の舞
1936(昭和11)年に制作された『序の舞』は「謡曲3部作」のうちのひとつで、上村松園の代表作品として広く知られています。上村松園が仕舞の会で見かけた光景を描いており、逆手に扇子を持った右手には振袖がかかっています。このことからは一瞬前にあったであろう激しい動きが伺われるでしょう。
上村松園はこの作品について「現代上流令嬢の仕舞姿なので仕舞の持つ古典的で優美で端然とした心もちを表現したいと思いました」と語っています。のちに重要文化財に指定された『序の舞』は、2018(平成30)年に修復が完成し、現在は東京藝術大学大学美術館に所蔵されています。
娘深雪と同様に版画にもなっているモチーフです。
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1875(明治8)年、京都市に生まれた上村松園は、鈴木松年や竹内栖鳳らに学んで独自の美人画の様式を確立し、「美人画の巨匠」と呼ばれるようになりました。
そんな上村松園の絵画などをお持ちで、売却を検討している方がいらっしゃいましたら当社にご相談ください。丁寧に鑑定させていただきます。
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