また、大正には琳派ブームを起こしたり、太平洋戦争下ではムッソリーニやヒトラーに作品を献呈するなど、彼が国内外に与えた影響は計り知れません。近年では人気アニメ「鬼滅の刃」で彼の作品へのオマージュと思しき必殺技もあります。
横山大観の掛け軸の値段(買取価格)相場
横山大観は、近代日本美術に大きな影響を与えた画家です。国内外でも評価を得ており、彼の技法である「朦朧体」は日本の美術シーンを揺るがしました。当初は受け入れられなかったものの、海外で評価が高まったことをきっかけに日本でも名声を得ました。また、その一方で日本美術の啓蒙にも熱心で、大正時代には初めての琳派ブームを起こしました。そのほかには、太平洋戦争の直前に同盟国であるイタリアのムッソリーニやドイツのヒトラーに作品を献呈するなど、日本政府御用達の作家でもありました。彼の長年にわたる日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られるなど、日本美術史における彼の存在は非常に大きいです。そのような背景があるために、横山大観作品の買取価格相場は比較的高価である傾向と言えます。模写作品であれば安価となりますが、本物であるほど、また有名作品であるほど数十万円から数百万円、1000万円以上といった買取価格となると言えるでしょう。なお、2012年には「神嶺不二山」という作品が5200万円で落札されました。現代もなおアートマーケットで人気の画家といえます。
横山大観の掛け軸を高い値段で買い取ってもらう方法
横山大観作品はアートマーケットで数多く出回っています。そのような中でも高く買い取ってもらえる方法を紹介します。ポイントとなるのは買取専門店の選び方や作品の状態、本物かどうか証明されているか、といった点です。なるべく綺麗な保存を心がけてこまめな手入れを行う
高く買い取ってもらううえで大切なのは、作品が綺麗な状態であることです。たとえ模写や版画であったとしても、シミや汚れがある場合とそうでない場合とでは、買取価格が大きく変わります。そのため、作品の入手後は劣悪な環境で保管しないよう、温度と湿度の管理を徹底しましょう。また、物理的なリスクを伴うキズを作らないためにも、保管場所に余計なものを置かないことであったり、作品に触れる際に細心の注意を払うことも大切です。
実績が豊富な美術品買取専門店に依頼する
買取に際して、様々な美術品買取専門店がありますが、専門店の選び方も大切になってきます。長きにわたって営業していたり、買取実績が豊富な専門店であれば信頼をおいても良いでしょう。また、専門店のオフィシャルサイトから店のブログをチェックすることで信頼性がさらに高まります。実際に専門店に足を運び、店員と話しながら信頼をおける店かどうか感覚で判断するのも良いでしょう。獏では国内外の数多くの作品を高額で、適切な価格で買取しています。電話やメールLINEでの査定も可能です。
横山大観の代表的な掛け軸の作品を解説
ここでは、横山大観の代表的な掛け軸作品を紹介します。ここで取り上げるのは、「瀟湘八景」「無我」「大楠公」「海に因む十題・山に因む十題(海山十題)」「或る日の太平洋」です。瀟湘八景
「瀟湘八景」は、1912年の第6回文展に出品された作品で中国旅行より帰ってきた後に描かれたものです。古来より親しまれていた東洋の主題(山水画)に、横山大観なりの解釈を加えて描かれた作品です。水墨画は墨の濃淡によって作品に奥行きをもたせることができます。このように水墨画の微細なニュアンスを活かして自然界の変化にとんだ風光の表現がなされているのがこの作品の特徴となっています。
無我
「無我」は、老荘思想に端を発し、禅の境地としての命題である「無」を絵画作品にしたものです。この作品では、横山大観が日本の思想のなかに禅の思想を持ち込もうと創造性をたくみに用いているのがわかります。仏教の思想において執着がなく無心であることを無我といいますが、この作品では純真な童子の姿で表現されています。童子は無表情で立ち尽くし、赤茶の大きな着物をまとっており、足元には花があります。繊細で静謐な作品です。
大楠公
「大楠公」は、1935年に大楠公六百年祭にあたり神戸の湊川神社に奉納された作品です。この作品では湊川の戦いに臨む前の武将・楠木正成の姿が描かれています。戦の前の清々しい楠木正成の表情が特徴的でしょう。また、彼の意思の強さも感じさせられる作品となっています。海に因む十題・山に因む十題(海山十題)
「海山十題」とは、1940年に横山大観が自らの画業50周年と、皇紀2600年を記念して制作した作品です。この作品は、彼が各方面からの依頼やその他の用事を全て断って制作した渾身の作品で、彼の芸術の集大成といえるでしょう。発表当時は非常に人気を博しましたが、戦争をきっかけに姿を消してしまいました。長年所在不明の作品だったのですが、2003年についに所在が判明しました。古くからの日本の思想が表現された作品で、発表された時代も相まって非常に人気作品でした。
或る日の太平洋
「或る日の太平洋」は、戦後に描かれた作品です。太平洋戦争で敗戦した日本にとっては、長年の日本文化を象徴する日本画が置かれた状況は極めて厳しいものでした。当然のことながら日本画は非難の的となってしまったのです。そのようななかでも横山大観は作品を制作し続け、渦巻く波の先に富士山を見据えた作品が完成しました。当時彼は70歳を超えていたため、時代の流れに折れることはなく、独自のスタイルを貫いた姿勢がこの作品からもわかるでしょう。
横山大観の掛け軸は全国7か所の美術館にて鑑賞可能
横山大観の作品を鑑賞できるのは主に下記の7つの美術館です。なかでも横山大観記念館では彼の作品の多くがコレクションされており、彼に関係する書簡やスケッチ、収集していた骨董品なども展示されています。彼のファンである方は一度足を運んでみると良いでしょう。また、島根県の足立美術館は横山大観の豊富なコレクションを有する美術館として知られており、「大観美術館」と呼ばれているほどです。「紅葉」や「雨霽(は)る」といった作品を鑑賞できます。
横山大観の略歴
横山大観は1868年に水戸藩士の長男として生まれました。明治維新から戦前を中心として、日本美術が大きく揺らぐ時代に新しい日本画技法「朦朧体」を確立しました。彼が近代日本画シーンにもたらした影響は計り知れません。1881年:東京府中学に入学し優秀な成績で卒業するが、東大予備門試験では入学資格を消失した
横山大観は、1868年に水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれました。東京府中学校に入学するも絵画に興味を持ち、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学びました。東京府中学校を優秀な成績で卒業しましたが、その後東大予備門試験では入学資格を喪失しています。1889年:東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心や橋本雅邦のもとで学ぶ
横山大観は、1988年に東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などから教えを受けました。その期間2、3ヶ月と言われるほどの短さで鉛筆画での受験をし、東京美術学校に第一期生として入学しました。東京美術学校とは、現在の東京藝術大学美術学部・大学院美術研究科です。東京美術学校では横山大観は岡倉天心、橋本雅邦らに学びました。同級生としては同期生には下村観山、西郷孤月がいました。
1898年:師と仰ぐ岡倉天心らの辞任を受け、大観も東京美術学校を辞職した
東京美術学校を卒業した横山大観は、京都で仏画の研究をするほか、京都市立美術工芸学校予備科教員をつとめました。その頃より「大観」という雅号で作品を残すようになりました。1896年には同職を辞めたあと、母校・東京美術学校の助教授に就任しました。しかし、ちょうどその頃より岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚し始めました。それと共に横山大観は1898年には東京美術学校を辞職し、日本美術院創設に携わることになり、同年には「屈原」を出品し、銀牌一席を受賞しました。
1903年~1905年:岡倉天心の勧めでインド・アメリカ・イギリスなど海外へ渡航する
1903年頃には横山大観は、日本美術院の活動の中で菱田春草と共に西洋画の技法を取り入れた新たな技法を模索していました。彼独自の技法である「朦朧体」は初めのうちは猛烈な批判を受けていました。この動きに対して国内の活動が行き詰まりを見せたために、横山大観は菱田春草と共にインドやアメリカ、イギリスなどへ海外に渡りました。そこで彼の作品は絶賛され、そのこともあり次第に日本でも名声を獲得し始めました。
1923年:全長40mを超える水墨画の代表作「生生流転」を発表し重要文化財に指定される
その後、横山大観は琳派ブームを巻き起こしたり、活動が途絶えていた日本美術院を下村観山、木村武山等と共に再興しました。1923年には横山大観は全長40mを超える水墨画の代表作「生生流転」を発表しました。この作品は、新水墨画様式形成の努力の最重要作品といえるでしょう。日本の著名な近代の画巻では最長の作品とされています。なお、この作品が一般公開された日に、関東大震災が起こったものの損傷を免れたといったエピソードがあります。
1928年・1936年:ムッソリーニへ「立葵」、ヒトラーへ「旭日霊峰」を献呈する
その後も横山大観は、日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞を受賞したほか、様々な表彰を受けました。同時代には太平洋戦争が始まる頃で、日本で活躍する芸術家が続々と政府御用達の画家となりました。そのようななかで横山大観も例に漏れず、同盟国のイタリア・ムッソリーニへ「立葵」、ドイツ・ヒトラーへ「旭日霊峰」を献呈し、戦争協力の姿勢を示しました。1951年:戦後に日本美術院会員を辞任し、文化功労者に認定される
1951年には横山大観は、日本美術院会員を辞任し、同じ年に文化功労者として認定されました。また、1935年から務めた帝国美術館会員も退任しています。1958年に東京都台東区にある自宅にて永眠し、彼の長年にわたる日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章が贈られました。横山大観の人物像と作品の世界観
ここでは、横山大観の人物像と作品の世界観について紹介します。横山大観の作品の特徴としてはまず、「朦朧体」が挙げられます。また、生涯を通して富士山をテーマにした作品を描き続けています。新しい日本画の技法「朦朧体」を確立した
横山大観の作品の特徴として「朦朧体」が挙げられます。朦朧体とは、空気や光線などを表現するために、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いる技法です。この技法では中国の水墨画の伝統である没骨(もっこつ)が日本画にも活かされています。横山大観と菱田春草によって見出された朦朧体ですが、確立当初はこれまでの美術シーンから非難されていました。しかしながら、朦朧体が海外で評価されるようになるとそれと伴い日本でも名声を得るようになりました。
生涯にわたり富士山の絵を描き続けた
横山大観は、「春、夏、秋、冬ばかりでない、朝、昼、夜とまた自ら異なっている」という言葉を残しているように様々な表情の富士山を生涯にわたり描き続けました。なんと生涯に描いた富士山の作品数は1500点という多さです。たとえば金色の空を背景に描かれた「雲中富士」は、雲の白と青い富士山、そして金色の空のコントラストが華やかな作品となっています。浮世絵に見られるような富士山とは異なり、横山大観の作品の富士山はモダンな印象を受けます。
横山大観に関するトリビア(豆知識)
ここでは、横山大観に関するトリビアを紹介します。横山大観は、近代日本美術の父と言える存在・岡倉天心らとともに日本美術院を創設しました。また、近年では彼の作品をオマージュしたと噂されるアニメもあります。岡倉天心らとともに日本美術院を創設した
横山大観は、岡倉天心らとともに日本美術院を創設しました。岡倉天心は、近代日本美術の父と言えるべき存在で明治維新以降の新しい日本の美術を啓蒙した人物です。彼は東京美術学校(今の東京藝大)を開校しましたが、校内でのトラブルをきっかけに東京美術学校長を辞職しました。その当時同校で教鞭をとっていた横山大観もそれに合わせて辞職し、岡倉天心とともに日本美術院の創設に携わりました。日本美術院は、美術学校においても美術院の設置が必要と考えられていたことから、新時代における日本美術の維持と開発を目的として開校されました。
鬼滅の刃「生生流転」の元ネタは横山大観の「生々流転」とも噂されている
横山大観作品をオマージュした作品は数多くあります。そのなかでも人気アニメ・鬼滅の刃の主人公である炭治郎の必殺技「生生流転」の元ネタは横山大観の同タイトル作品だと言われています。鬼滅の刃では主人公の炭治郎が水の技を使っていますが、龍のように水が跳ね上がることで有名な「生々流転」です。一方で横山大観の「生々流転」では、山間の雲が一滴の雫となり、大河になるさまが描かれています。両者からはダイナミズムを感じることができるでしょう。
横山大観の掛け軸の値段は美術品買取専門店「獏」にご相談ください
横山大観は、近代日本画においてはとても重要な人物といえるでしょう。これまでの日本画の常識を破り、中国の水墨画から着想を得た「朦朧体」を確立しました。彼に影響を受けた日本画家、そしてアーティストは枚挙にいとまがありません。当店では現在横山大観作品の買取を強化しています。アート作品は価値の判断が難しいため、スタッフが念入りに査定いたします。また、絵画だけでなく、骨董や茶道具など幅広く買取いたします。買取の流れや買取実績、ご不明点などございましたらお気軽にお問い合わせください。