BLOG

濱田庄司の代表作品を紹介|人間国宝の濱田庄司作品の特徴や値段についても解説

濱田庄司は、河井寛次郎や思想家である柳宗悦とともに民芸運動を起こした人物です。民芸運動とは、手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとするムーヴメントのことで、彼の作品からは日用品として馴染めながらも楚々とした美しさが感じられます。

また、民芸運動のほかにも濱田庄司の功績として、民芸としての益子焼誕生に大きく影響し、益子を有名な窯業地にしています。ロンドンでも個展を開催したり、沖縄で制作活動を行うなど新たな文化を自身の制作の肥やしとすることを得意としていたようです。



濱田庄司の代表作品を解説

ここでは、濱田庄司の代表作品である「塩釉押文花瓶(塩釉)」「白釉黒流描鉢(流し掛け)」「赤絵丸文急須(赤絵)」「飴釉地掛筒描楕円皿」「地掛鉄絵黍文茶碗」を紹介します。


塩釉押文花瓶(塩釉)

塩釉押文花瓶」は、1955年に制作された作品です。塩釉は濱田が得意としていた技法のひとつです。塩釉とは、釉薬の代わりに塩を使う特殊な施釉技法のことで、ガラス状の釉膜となって作品を覆い、特有の美しい艶が魅力的です。13世紀のドイツで生まれた技法ですが、現在もなおこの技法を用いている窯元は珍しいです。

もともとはドイツの技法であった塩釉は、濱田庄司がイギリスでの活動時期に習得した技法です。


白釉黒流描鉢(流し掛け)

白釉黒流描鉢」は、1960年の作品です。流し掛けといった技法が施されています。流し掛けとは、釉薬などの装飾技法のひとつで、柄杓で流しながら掛けていく方法のことで、リズミカルに黒い釉薬が白地の鉢に流し掛けされていることがわかります。


赤絵丸文急須(赤絵)

赤絵丸文急須」は1938年に制作された作品です。赤絵とは、赤を主調とする上絵付のある色絵のことで、この作品でも白地の急須に赤い色絵が施されています。上品で楚々とした佇まいが魅力的な優品です。


飴釉地掛筒描楕円皿

飴釉地掛筒描楕円皿」は、1931年に制作された作品です。なめらかな手触りの飴色の釉薬が施された楕円形の皿となっており、濱田庄司が携わった民芸運動のメッセージ通り、日用品の美を感じさせる作品といえるでしょう。


地掛鉄絵黍文茶碗

地掛鉄絵黍文茶碗」は、1955年に制作された作品です。手ろくろを使ったシンプルな造形と、無作為にも見える大胆な模様が特徴的な濱田庄司の作品ですが、その魅力を多分に味わえる優品といえます。日用品として馴染むシンプルな佇まいでありながらも、大胆な模様から温かみを感じさせる作品です。


濱田庄司の経歴

濱田庄司は、1894年に神奈川県川崎市に生まれました。高校時代より陶芸に興味を持ち、大学では板谷波山に師事しました。そして、1920年代になると河井寛次郎や、思想家・柳宗悦とともに民芸運動を起こし、民芸作品に美を見出しました。



1894年:現在の神奈川県川崎市に生まれる

濱田庄司は、1894年に現在の神奈川県川崎市に生まれました。東京府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)に東京高等工業学校(現在の東京工業大学)窯業科に入学し、板谷波山に師事しました。大学では窯業の基礎科学についてを学び、1期上の各務鑛三とは生涯交友関係を持ちました。なお、濱田庄司は高校時代より陶芸に興味を持っていました。


1916年:東京高等工業学校(現・東京工業大学)窯業科を卒業し、親交のあった河井と同じ京都市立陶磁器試験場に入所

1916年に濱田庄司は東京高等工業学校窯業科を卒業し、その後は2期上の河井寛次郎とともに京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行いました。そして同時期に、彼らは柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチの存在を知り、後の民芸運動へと繋がることになります。


1920年:バーナード・リーチの帰国に際してイギリスへ同行しロンドンで個展を開催する

1920年に濱田庄司は、イギリスに帰国するリーチに同行し、彼とともにコーンウォール州セント・アイヴスに築窯しました。また、1923年にはロンドンで個展を開催し、成功をおさめました。

その後の濱田庄司は、ロンドンから帰国してしばらくの間は沖縄の壺屋窯などで学び、1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を始めました。


1926年:河井、思想家・柳宗悦とともに民芸運動を開始

1926年に濱田庄司は、河井寛次郎や思想家である柳宗悦とともに民芸運動を起こしました。民芸運動とは、手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとするムーヴメントで、「民藝」とは「民衆的工藝」の略語であり、彼らによる造語です。

この運動の中心人物である柳宗悦は、日本各地の焼物、染織、漆器、木竹工、無名の作である日用雑器、朝鮮王朝時代の美術工芸品といったこれまで美術史では評価されなかった無名の職人による民衆的な美術工芸の美を世に紹介しました。


1955年:第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される

戦後の濱田庄司は、1955年(昭和30年)2月15日に第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)として認定されました。その後も1964年(昭和39年)に紫綬褒章、1968年(昭和43年)には文化勲章を受賞しています。

それと同時期に、戦前にともに民芸運動を行っていた柳宗悦がこの世を去り、1961年(昭和36年)には彼の後を継いで日本民藝館の第2代館長に就任しています。ほか、1970年大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て1972年大阪日本民藝館の初代館長に就任しました。


1977年:旧居に自らが参考にした蒐集品を展示する益子参考館(現・濱田庄司記念益子参考館)を開館

晩年近くになると、濱田庄司は1977年に自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館しました。翌年の1978年にこの世を去り、その後も従三位と銀杯一組を追賜されています。

濱田庄司はその没後も河井寛次郎や思想家である柳宗悦とともに起こした民芸運動の重要人物として、陶磁器だけでなく民芸全般の分野に携わる人たちから支持されています。また、彼が携わった民芸運動は、今日の日本の美術界にも多大な影響を与えています。



濱田庄司の作品の特徴

濱田庄司の作品の特徴は、手ろくろを使ったシンプルな造形と、無作為にも見える大胆な模様です。作陶の拠点であった益子の土と釉薬を用いた作品が多く、彼が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、どれも力強く健康的です。

また、民芸運動を行っていたり、1920年代にはロンドンでも作陶していたほか、沖縄でも定期的に制作活動を行っていました。そのため、多種多様な文化を作品に取り込むことが得意といえるでしょう。彼の作品は、民芸陶芸らしい素朴さと力強さだけでなく、モダンで健康的な美しさを備えており、あくまでも日用品という姿勢を保ちながらも芸術品のような魅力にあふれています。



濱田庄司の作品が鑑賞できる美術館・博物館

ここでは、濱田庄司の作品が鑑賞できる美術館・博物館について紹介します。濱田庄司記念益子参考館は、1977年に濱田庄司自らが開館した、国内外の民芸品を展示する参考館です。また、日本民藝館は彼とともに民芸運動を起こした柳宗悦が初代館長でした。どちらも民芸に深いゆかりのある博物館です。


濱田庄司記念益子参考館(旧・益子参考館)

濱田庄司記念益子参考館は、1977年に濱田庄司自らが開館した、国内外の民芸品を展示する参考館です。彼が蒐集した作品のみならず、彼の人生に深く関係する人物であるバーナード・リーチや河井寛次郎らの作品も展示されています。

住所:〒321-4217 栃木県芳賀郡益子町益子3388
アクセス:
JR宇都宮駅より東野バス益子行き「益子参考館前」下車、徒歩3分
営業時間:9:30~17:00(入館は16:30まで可)
料金:
一般:1000円(団体は900円)
中高生:500円(団体は400円)
小学生以下は無料
※企画展観覧料は内容によって異なる
公式HP:https://mashiko-sankokan.net/


日本民藝館

日本民藝館は「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民芸運動の拠点として、1926年に柳宗悦によって開設されました。民芸に関する展覧会が数多く開催されており、民芸運動に携わった濱田庄司の作品ももちろん収蔵されています。

住所:〒153-0041 東京都目黒区駒場4-3-33
アクセス:
京王井の頭線「駒場東大前駅」西口より徒歩7分
小田急線「東北沢駅」東口より徒歩15分
営業時間:9:30~17:00(入館は16:30まで可)
料金:
一般:1200円(団体は1000円)
大高生:700円(団体は600円)
小中生:200円(団体は150円)
公式HP:https://mingeikan.or.jp/



濱田庄司の作品の買取相場・値段

濱田庄司の作品の買取価格の相場は、茶碗だと約2~5万円、花瓶は約3~10万円、湯呑は約3~15万円、皿は約4~30万円が目安とされています。河井寛次郎や、思想家・柳宗悦らとともに民芸運動に携わったことや、益子を有名な窯業地とさせたことなど、彼は民芸界における重要人物といえるでしょう。マーケットでは有名人物の作品になるほど高価で取引されがちで、彼もまたそのひとりだといえます。先ほど挙げた相場はあくまでその目安となりますが、歴史に名を残した作品であるほど高価になり、状態や希少性により数百万になったりする可能性があります。



濱田庄司に関する豆知識(トリビア)

ここでは、濱田庄司に関するトリビアを紹介します。彼は民芸としての益子焼誕生に深く携わり、益子を有名な窯業地にしました。また、沖縄にも深いゆかりのある人物で、毎年のように沖縄を訪れて制作活動をしていました。


民芸としての益子焼誕生に大きく影響し、益子を有名な窯業地にした

濱田庄司は、民芸としての益子焼誕生に大きく影響し、益子を有名な窯業地にしました。彼は古くから陶器の村であり、材料や技術の伝統が今もよく残る益子にて、作品を制作するほか益子の土とうわぐすりを研究しました。益子の土を十分にこなし欠点を活かすことで温かみのある「益子焼」として存在を生まれ変えました。

そのような濱田庄司の努力があり、展覧会などで益子焼の存在が広まり、民芸としての益子焼が誕生し、海外にも知られる有名な窯業地となりました。


濱田庄司は沖縄が好きで毎年のように訪れては制作活動していた

濱田庄司は沖縄が好きで毎年のように訪れては制作活動をしていました。1920年に濱田庄司は、イギリスに帰国するリーチに同行し、彼とともにコーンウォール州セント・アイヴスに築窯し、1923年にはロンドンで個展を開催し、成功をおさめたのち、帰国後の拠点は沖縄となりましたが、そこでは壺屋窯で学んでいたようです。そのようなこともあり、沖縄は彼にとって大切な土地となったのでしょう。

また、1972年に琉球電信電話公社より上梓した「沖縄の陶器」は濱田庄司が選んだ琉球王朝時代より現代までの優品が網羅されています。


「琉球陶器」技能保持者の金城次郎や益子焼の陶芸家ら、多くの弟子を抱えていた

濱田庄司は、「琉球陶器」技能保持者の金城次郎や益子焼の陶芸家ら、多くの弟子を抱えていました。金城次郎は、沖縄で初めての人間国宝で、重要無形文化財「琉球陶器」技能保持者として認定されました。1925年に、民芸運動を起こしたばかりの濱田庄司と出会い、彼らからの影響を作品に反映させました。

また、濱田庄司の弟子には島岡達三がいます。彼の作品を特徴づける技法として「縄文象嵌」がありますが、この技法も濱田庄司の教えから影響を受けています。



濱田庄司の作品買取なら美術品買取専門店「獏」へご相談ください

濱田庄司は、1894年に神奈川県川崎市に生まれ高校時代より陶芸に興味を持ち、大学では板谷波山に師事しました。1920年代には河井寛次郎や、思想家・柳宗悦とともに民芸運動を起こし、民芸作品に美を見出しました。民芸運動は今もなお日本の民芸界に影響を与えており、日本の美術史において重要なムーヴメントとなっています。

当店では現在濱田庄司作品の買取を強化しています。アート作品は価値の判断が難しいため、スタッフが念入りに査定いたします。また、陶芸作品だけでなく、茶道具や絵画など幅広く買取いたします。買取の流れや買取実績、ご不明点などございましたらお気軽にお問い合わせください。