ピカソの代表作7選を紹介|生涯で約15万点制作した芸術家の代表作品や作風を年代順に解説
パブロ・ピカソ(Pablo Picasso)は、「20世紀最大の巨匠」としてその名を知らない者はいないでしょう。ピカソは『アビニョンの娘たち』や『ゲルニカ』などの美術史上に大きな足跡を残す傑作を残し、さらに最も多作な作家としてギネスにも認定されています。今回は、ジョルジュ・ブラックとともにキュビズムを生み出したピカソについて、代表作品や作風を年代順に詳しく解説します。
パブロ・ピカソとは?略歴を紹介
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1881年10月25日、パブロ・ピカソはスペイン南部バルセロナにある街マラガで生まれました。ピカソの生まれた家庭は、美術教師であり画家でもある父を中心とした中流階級でした。ピカソは幼いころから絵を描くのが好きで、父親の教育のもとでその技を磨きます。
1897年、ピカソは16歳という若さでスペインにおいて最も権威ある美術学校、王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学しました。しかし、すでに父から伝統的な絵画技法を学んでいたピカソは美術学校での指導に満足できず、美術学校を退学してしまいます。
1899年、ピカソはバルセロナの若い芸術家とかかわり始め、彼らと一緒にパリとバルセロナを行ったり来たりするようになりました。ピカソはそこで初めて、自分が学んできた伝統的な絵画とは異なるロートレックやセザンヌなどの作品を目にします。
ピカソは1901年に、パリで初めての個展を開きました。そこからピカソは10年もたたないうちに作風を次々と変えながら、自らの目指す芸術を追求していきます。ピカソはその華麗なる女性遍歴においても有名で、多くの女性がミューズ(性的な魅力を持ち、芸術的インスピレーションを与える存在)となって彼の芸術活動を支えました。
ピカソは第二次大戦中はパリで過ごし、その間に多くの詩を制作しました。戦後しばらくしてピカソは南仏の南仏のヴァロリスという村に移住します。1964年には日本とカナダで、1966年にはパリで回顧展を実施し、多くのピカソファンが美術館に詰めかけました。
故郷であるバルセロナにピカソ美術館が開館した3年後の1973年、ピカソは美術史上に大きな足跡を残して91歳でこの世を去りました。
ピカソの代表作を年代順に紹介
ピカソの年代別の代表作品と特徴を紹介します。青の時代 | 1901年〜1904年頃 | 1901年に友人カサヘマスが自らの命を絶ちます。大きな衝撃を受けたピカソは、無機顔料のプロシア青をベースとする暗青色を基調として、軽業師、アルルカン、売春婦、乞食、盲人など寄る辺のない人々の絵を描くようになりました。 |
ばら色の時代 | 1904年〜1906年頃 | パリに移り、フェルナンド・オリヴィエとの交際が始まります。あたたかみのある色彩が使われるようになりサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などが描かれました。しかし、まだ憂鬱な気分がわだかまっているようにも見えます。 |
アフリカ彫刻の時代 | 1907年〜1909年頃 | 1907年、ピカソはアフリカのプリミティブアートから影響を受けて『アヴィニョンの娘たち』を完成させました。この時代に生み出されたアイデアは、キュビスムの時代に引き継がれます。 |
キュビスムの時代 | 1909年〜1919年頃 | キュビスムの時代は、1909年から1912年までの分析的キュビスムの時代と、1912年から1919年までの総合的キュビスムの時代にわけられます。 分析的キュビスムの時代には、モノクロの茶色がかった中間色を使用しています。ジョルジュ・ブラックとともに、対象物を分解してそれらを「分析」する試みを進めました。 総合的キュビスムの時代には、キュビスムをさらに発展させて、壁紙や新聞のページの一部を利用したコラージュの作品が制作されました。 |
新古典主義の時代 | 1917年〜1925年頃 | バレエダンサーのオルガ・コクローヴァと出会い、彼女はピカソの最初の妻となりました。「私を描くときは私とわかるように描いてほしい」というオルガの言葉を受けて、古典主義的な画風に変化しました。 |
シュルレアリスムの時代 | 1925年頃~ | 1920年代にシュルレアリスムに心惹かれたピカソは、作品に幻想的な生き物を登場させるようになります。シュルレアリスムとは、理性を排除し、無意識の思考を表現するというフロイトやマルクスの思想を基盤とした運動です。描かれた化け物のようなイメージには、妻オルガとの不和が影響したともいわれます。 |
科学と慈愛|1897年
『科学と慈愛』はピカソが16歳の時に描いた作品です。「生と死」をテーマに作成し、マドリードの全国美術展で入賞しました。父親から教わった伝統的な絵画技法を駆使して制作されています。
力なくベッドに横たわる女性とそれを見守る修道女、修道女に抱かれた女性の子供、医師らを写実的に描いた初期の傑作であり、若き日のピカソのあふれ出る才能が感じられます。
人生|1903年
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』1903年に制作した『人生』は、ピカソの青の時代における最高傑作といわれています。左に描かれたカップルは、自殺をしたカサヘマスとその恋人ジェルメールです。
カサヘマスは、青の時代が生まれるきっかけとなったピカソの親友で、悲恋の末に自殺してしまいました。うつろに視線をさまよわせる登場人物を青の時代の特徴である暗青色で描いた、絶望と悲しみが感じられる作品です。
アビニョンの娘たち|1907年
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アフリカのプリミティブアートからインスピレーションを受けて制作された『アビニョンの娘たち』は、のちに続く芸術家たちに大きな影響を与えた、キュビズムの原点ともいえる偉大な作品です。
右側の2人の顔の造形には、1907年6月にパリのシャイヨ宮民族学博物館で見たアフリカ彫刻の影響が見られます。伝統的な遠近法が無視され、小さなパーツに切り分けられた人物や背景を再構築することで表現しています。
ちなみに『アビニョン』とはバルセロナにある通りの名前で、『娘たち』とはそこで働く娼婦たちです。画面下部に描かれる果物は、命あるものは等しく朽ち果てるということを暗示しています。
肘掛け椅子に座るオルガの肖像|1918年
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』白い肌と黒いドレスを対照的に描いた『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』は、1918年に制作されました。ピカソの最初の妻であるバレエダンサーのオルガ・コクローヴァを描いた優雅で美しい作品です。
ローマを旅したときに見た古典主義の作品に魅了されたピカソは、「私を描くときは私とわかるように描いてほしい」というオルガの言葉を受けて、写実的な表現に立ち返りました。ピカソの新古典主義の時代における代表作品の一つです。
母と子|1921年
出典元:flickr『母と子』は、ピカソとオルガの間に第一子のパウロが生まれた1921年に制作されました。『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』と同じく、新古典主義の時代における名作です。
我が子を見つめる母親のまなざしから深い愛が感じられる、人気の作品です。力強く描かれるがっしりとした体からは、生命のたくましさや躍動感が感じられるでしょう。
海辺を走る二人の女|1922年
出典元:flickr
『海辺を走る二人の女』は、上の2作とともに新古典主義の時代における代表的な作品として知られています。彫刻のような顔つきに重量感のある体を持つ女性らが、太陽の光を浴びて軽やかに走る姿が爽快な印象を与える作品です。
パウロが生まれた翌年の1922年、ピカソの家族はフランス北西部の海辺の街ディナールを訪れます。『海辺を走る二人の女』はその年に描かれました。
ゲルニカ|1937年
出典元:flickr
1937年に描かれた『ゲルニカ』は、言わずと知れたピカソの代表作品です。同年、ドイツ軍がスペインの古都ゲルニカを無差別爆撃したことを非難して制作されました。
ゲルニカが爆撃されたことを知ったピカソは、すでに着手していたパリ万博に出品するための作品制作を中断して、『ゲルニカ』の制作を開始します。そして同年のパリ万博スペイン館で、急ピッチで仕上げられた壮大な『ゲルニカ』が公開されました。
『ゲルニカ』に描かれているのは戦闘場面ではなく、炎に包まれた女性や亡くなった子供を抱いて泣き叫ぶ女性など、苦しむ市井の人々です。恐怖や悲しみを表現し多くの人の心を揺り動かした『ゲルニカ』は、現在スペインマドリードの国立ソフィア王妃芸術センターが所蔵しています。
ピカソの代表作を鑑賞可能な国内外の美術館
それでは、ピカソの作品を間近に見られる美術館を紹介します。一つは日本の美術館なので、ぜひ足を運んで生の作品から放たれるエネルギーを肌に感じてみてくださいね。
箱根 彫刻の森美術館 ピカソ館
出典元:ウィキメディア・コモンズ
箱根 彫刻の森美術館は、公益財団法人彫刻の森芸術文化財団とフジサンケイグループが運営する1969年に開館した美術館です。館内にはピカソの彫刻を主に展示する「ピカソ館」があります。
ピカソの娘であるマヤ・ピカソから購入した陶芸作品188点に加えて、絵画や彫刻、タピスリーなども所蔵しているピカソ館では、展示替えを行いながら順次作品を公開しています。
箱根 彫刻の森美術館の公式サイトはこちら
ピカソ美術館
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パリのマレ地区にあるピカソ美術館は、ピカソの作品を5,000点以上も収蔵している国立の美術館です。青の時代に描いた暗い表情の『自画像』や新古典主義の時代に描いた『肘掛け椅子に座るオルガの肖像』などを含め、初期の作品から晩年の作品までを年代順に展示しています。ピカソファンなら1度は訪れたい美術館といえるでしょう。
ピカソ美術館ではピカソの作品だけでなく、彼が集めていたコレクションや書籍なども幅広く収蔵しています。また、歴史的建造物に指定された伝統ある建物を美術館として使っているので、建物自体も見どころの一つです。
パリ国立ピカソ美術館の公式サイトはこちら
ピカソの生涯での制作作品数は約15万点
実はピカソは最も多作な作家として、ギネスに認定されています。ピカソは約78年の芸術家人生を通じて、約15万点の作品を制作してきました。作品の内訳は以下の通りです。
絵画、デッサン | 約1万3,500点 |
版画 | 10万点 |
本の挿絵 | 3万4,000点 |
彫刻、陶器 | 300点 |
ピカソの略歴や代表作品まとめ
早熟な天才画家パブロ・ピカソは、アカデミックで写実的な絵画技法を若くしてマスターし、その後は作風を次々と変えながら自らの芸術を追い求めました。
「ラファエロのように描くのには4年かかったが、子どものように描くのには一生かかるだろう。」とは、ピカソの言葉です。ピカソは、子供のように自由な発想で描く絵画を理想としていたのでしょう。
ピカソの残した名作は、箱根 彫刻の森美術館 ピカソ館や、パリのピカソ美術館などで鑑賞できます。興味のある方、近郊にお住まいの方は、ぜひ生のピカソの作品を見に足を運んでみてください。
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